ネットの中心で選民思想を叫んだ公僕…の嫁?

自分だけの利益を最大化したい人が公僕になる社会というのは救われない。

お受験をする理由|お受験のまとめ

リンク先の「お受験をする理由」を要約すればこうなる。「自分の学区の公立校は公営住宅の子供が多い⇒公営住宅の低所得者には確率的に危ない人が多い⇒危ない親が多い学校の教育には期待できない」…このロジック自体いかにも賛同しかねるのだけれど、これがこの人の実感なんだろう。貧乏人の世界では「この人の考える」常識が通用しない。そして、この人の常識で考えたらしい持論が展開され、ある提案がなされる。その主張は、少なくともぼくには、あまり常識的だとは思えなかった。平たくいえば「行政は生活レベルによって住居区画を分離しろ」という主張である。

その心は「差別的な発言と取られるかも知れませんが、現実問題として生活レベルが周囲と共通であることが様々な意味で安定をもたらしてくれるものです。」ということらしい。ぼくは、この意見に強く反対はしない。ここでいう安定というのは、金持ちは金持ち同士治安の良い世界で、貧乏人は貧乏人同士治安の悪い世界で、それぞれに安定して暮らそうという意味だろう。それは、それぞれの生活レベルにいる人間の本音に違いない。価値観の違いすぎる人間同士の付き合いはときに苦痛だ。ただし、自分が暮らす世界を選ぶチャンスだけは、ある程度保証されるべきだと思う。

ところが、リンク先の人はこう主張する。行政はお金持ちの世界から貧乏人を分離して固定化すべきだ、と。貧乏人は貧乏人の世界でしか暮らせないようにすべきだ、と。そして、貧乏人の暮らす世界に生まれた子供は、貧乏人ばかりが通う満足な教育も期待できない公立校に通えばいい、と。これは実質的に、機会の均等を奪えという主張だ。リンク先にあるような住宅政策なるものを実行し、リンク先の人が望むような環境を整備すれば、格差は今よりも強力に固定されるだろう。これが官舎に住まうような人間の考え方として常識的だというなら、もう絶望的というよりない。

行政の恩恵を受けたいと思うのは、納税者にとっては至極当然の心情だ。むろん、行政は特定の人間だけに利する政策を行うべきではない。これがぼくの考える常識である。劣悪な貧乏人の世界が存在するなら、そんな世界をなくすべく政策を打ち出すのが本当だろう。にも関わらず、自身の利益を守るための政策を公僕自身が、或いはそれに近しい人間が考案する。それも至極当然のことのように。まるで正しい行いででもあるかのように。こんなグロテスクな話はない。ところで、モンスターペアレントの多くは、心から我が子のことを思って理の通らない主張をするのだという。

はてして、モンスターは本当に公営住宅に住まう獣なんだろうか?

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comment - コメント

まあ公営団地≒モンスター親子の巣窟って構図は、そうと言明してしまえばいかにも不穏当ですが、現実としてありますよ。
ここは野放図に言い切ってしまいますが。
居住地による各社会階層の物理的隔離という現実は、疾うに「グローバル・スタンダード」ですね。

そのこと自体の是非は問題として大きすぎるのでひとまず措き、では各々自分ちの子供の小中学校選択はどうするのかというだけのことになりますが…
こないだ京大生の子に説教してたような、いわゆる「マッチョ」な方々のお宅はどうなのかな、という下世話な興味があります。

子供自身が崩壊学級の混沌をもたくましく賢く生き抜いて行け、というのと、当然親が最善の環境を熟慮の上選択する、というのと…どちらがマッチョ的にコレクトなのか?

いや、「マッチョに聞いとくれ」と仰りたいところでしょうが。まあ例によって勝手な落書きです。

> nbさん
政策云々を離れて、我が子の育成環境という視点に話を絞るなら、リンク先の母親の選択もアリだろうと思います。もっといえば、何がその子の将来に利するかなんて誰にも分からないんだから、親が思う最善を尽くすより道はない、というべきでしょうか。まあ、極力温室で、という発想はマッチョ的ではないでしょうけれども。逆に、読み書き算盤すらまともに習えず、徒にトラウマを拵えるだけというのではさすがにマッチョ教育にすらならないでしょうね。
学歴を巡るマッチョたちの多くの発言は主に大学以降の高等教育についてで、いわゆる義務教育など初等教育にかかる発言をとりあえずぼくは捕捉してないんですよね。だから、彼らが我が子をどうするのか、或いはどうしているのかは知る由もありませんが、彼らは成金らしく都心の一等地に住んでる可能性が高いので、公立にやったとて貧乏人の只中に放り込まれるなんてことにはならないんじゃないでしょうか。ただ、モンスターペアレントの話題を見聞きする印象でいえば、特に貧乏人の親に偏った現象だとは思えません。語義は曖昧だし統計もない印象論なので反論されてなお反駁するだけの根拠はありませんが。個人的には、良い所の子だけ集めた学校に通ったところで、イジメや学級崩壊、親や教員の劣化などなど、恵まれない育成環境を余儀なくされる可能性が劇的に低くなるような気はしませんね。

もちろんもちろん、モンスターなる語を使う時点ですべては掛け値なしの印象論です。
もはや脳も茹で上がった今日この頃、なにかといい加減なものの言いようですみません。

マッチョは(おそらく)偶然にもガラの悪い土地には住んでいなかったわけですね。
「やがて哀しき外国語」の、アメリカ人インテリは口が裂けても人種差別発言は口にしないが、○丁目から先はワイルドな地域だから絶対に行かないでねとサラっと忠告してくれる。そういうエピソードを思い出します。

機会の平等と結果の平等は別個のものでない。つまり相続される成果(金だけでなく、ソフト的なものを含み)については。
初等教育は格差問題の最前線だと思ったのです。

公共団地の住人に「モンスター」が多いというのは、むろんこのままではどこに出しても通用しない命題です。わたし自身の見聞を述べて、ここでその事実性を言い立てることに意味はない。
ここでは純粋培養の核家族―地域社会の伝統なりしがらみという土壌から切り離された「孤立者の群体」として、また経済的理由から(子供の学校選びに関して)自由な選択肢を持たない集団として、つまりは前述の「最前線」に直面する象徴として述べました。

近視眼的なお受験ママは「階層」というファクターはコントロールしようとしているけど、そういうケチ臭い親による薫陶というよほど重大な要素には盲目であるように見える。
しかし教育格差をいずれ社会的既定事項におしすすめるであろう力は、そういう間抜けなプチエリート意識でも、「モンスター」個々の非常識さや暴力でもなく、現行の公的教育が質的に到底金をとれるような代物でないという事実であると思いました。

では金かければ良質な教育が?といえばもちろん必ずしもそうではない。が、需要と資金のあるところ、それは解決され得る問題ではある。
ボンボンばっかり集めて早期受験対策するということでなく、今の検定教科書のどこにも書いてない、論理的思考や議論の仕方、学問の仕方そのものを教える能力を持つエリート教師を揃えられるかどうかで。

> nbさん
機会の平等と結果の平等については、仰るとおり完全に「別個のもの」ではないとぼくも思います。ただし、完全な因果関係に収斂されるものでもないと思います。その是非は別として「ある程度」は、人為的にコントロール可能だろう、と。
同じ意味で、経済状況と住居地と教育の関係も、まったく切り離して考えられるわけはないんですが、じゃあ、まったくコントロール不能かといえば、そうでもないんじゃないかと思います。ただ、どうしたいかという総意の落としどころを見付けるのは困難だろうし、そもそもコントロール可能な立場の人間が、自ら意に染まない操作の手を加えるとは考え難いということもあります。そういう現実も手伝って、放っておいても格差は固定されていくのでしょう。
そもそも、総中流社会といわれた時代だって、特権階級らしきものは普段は見え難い形であれ存在し続けたわけで、つまり古の昔から格差みたいなものは固定化されてきたわけですよね。今度はその固定化の波が総中流と呼ばれた階級内にまで及びつつあるというだけの話でしょう。
本物の特権階級なら知恵も知識も要らなかった。ところが、中流内階層の上位者になるには知恵がいる。そこで教育の質が問われる。「需要と資金」でできる問題解決が公的教育の場に供されず、資金を持った階層だけが享受できるものになる。資金を持つ人たちはそれを望むのかもしれませんが、それが日本の国力を低下させるかもしれないとは考えないんでしょうかね。そもそも、現代的エリートはグローバル・スタンダードで日本を捨てるのがトレンドらしいですが。

なんだったら本物の超エリート小学校を作ればいいんです。そこで得られた知見をゆくゆくは一般公立にもたらせばよい。いま、初等教育ってそもそもなんだ?何を教えればいいんだ? ということすら誰もわからないので、そのフリをしてごまかし続けている。
およそ目に付きやすい「社会問題」すべての本丸がそこにあるのだとすら思うのです。
なにもかも教育が悪いせいだと、本気で。

> nbさん
その「本物の超エリート小学校」には、おそらく今の教育の枠に嵌らないような野心的な試みが必要で、しかも、それは手探りではじめるしかなくて…ということになると、やってみたはいいけれど、今の世相に合わない「生きづらい」子供ばかりが育ってしまったとか、リスク意識が先に立って案外今の教育からそう遠くないものをちょっとしたエリート教師が提供するだけの温室になってしまったとか、色々と難しそうな予感はしますね。それでもやろうという声が上がるなら、それはそれで見てみたい気もしますが。ただ、自分に我が子をそこに通わせるだけの甲斐性があるとして、その道を選ぶかと訊かれると結構悩んでしまって「通わせるよ!」と即答はできないかもしれません。

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