実際のところ「裸になって何が悪い」のか?

公然わいせつといえば刑法第174条である。たぶん。

【SMAP草なぎ逮捕】1人で全裸、「裸になって何が悪い」 - MSN産経ニュース

公然とわいせつな行為をした者は、6ヶ月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。まあ、「悪い」というのも程度問題ではある。一応、ジャンケンで缶ジュース代を賭けるのだって「悪い」ということになっている。その意味でいうと、公然わいせつというのはそれほど悪くないように思う。「6ヶ月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金」で検索してみると、たとえば、車の不正改造と同程度の悪さである。少なくとも法的には。もし「SMAP草なぎ、車の不正改造で逮捕」だったら、印象はかなり違ったろうと思う。社会的ダメージと罪は比例しない。

罪の軽重はひとまずおくとして、そもそも「裸になって何が悪い」のか、という問いに答えるのは難しい。今の時代のこの日本だから、というのがもっとも完璧でもっとも内容のない答えだろう。なにしろ、「わいせつな行為」の判断というのは、相当に恣意的らしいのである。草なぎ某の裸騒動がどんなものだったのかは知らない。もしかすると、もの凄くエロチックなものだったのかもしれない。が、ニュースから読み取れる範囲で判断すれば、ただ酔っ払いが裸で喚いただけの話に見える。全裸で管を巻く酔っ払いが「わいせつ」というのだから文脈も何もあったものではない。

人間にとって服というのはオプションである。たぶん、寒さを防ぐとか外敵から身を守るとか、そんな実利的な理由で纏い始めたんだろう。大事なところを隠したのも、別に恥ずかしかったからではないと思う。単に急所だったからではないか。その内に文化的な要素が付加され、服は「着れば有利」ではなく「着ないと恥」になった。或いは、服がその人間の所属文化や文化的地位を表すようにもなった。ついでに「性的なるものの隠蔽」を意味するようにまでなったらしい。いまや性は「反文化的なもの」の代表なのかもしれない。そして「反文化的」であることは罪である、と。

理性や社会性は「文化」に依存する。つまり「反文化的」であることが罪なのは、それが「反理性的」であり「反社会的」であり得るからだ。それは相互規制システムとしての社会から見れば「悪」以外の何ものでもない。だから、芸術のような「文化的」なものが性を扱う場合は、その芸術性が(恣意的であるとはいえ)一応は考慮されるのだろう。つまり、素っ裸で騒ぐ酔っ払いは「わいせつ」だからというよりは「反文化的」だから悪いという話なんだと思う。実際にエロティックかどうかは、たぶん関係ない。裸体は必ずしもエロくないし、裸体ばかりがエロなわけでもない。

社会は社会的でないものを排除しようとし、文化は文化的でないものを排除しようとする。文化人は未開人を受け入れられない。或いは、異文化を未開と判断する。文化的な社会においては未開であることは罪たり得る。文化を異にすることは罪たり得る。これは、結構怖い話である。本当にその「反文化」を罪となすべきかどうかは、きちんと精査されるべきだろう。数日前にミニスカートを穿いた娘が許せず殺した父親の話を目にしたけれど、全裸の酔っ払いが当然のように「公然わいせつ」で逮捕される社会にあって、あの父親の感性を異常だと責めることは難しいように思う。

常に流転する社会や文化は、決して「何よりも優先されるべきもの」とは限らない。

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