不幸を減らすためにすべきこと

犯罪の引鉄になったかもしれない事実はいくつもある。

【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 - 何かごにょごにょ言ってます
秋葉原通り魔事件が例外的犯行だと思えない理由 - 狐の王国
秋葉原無差別殺傷事件について雨宮処凛さんと赤木智弘さんにコメントを伺いました。 - 革命的非モテ同盟

歴史的に貧困と犯罪発生率の高さは概ね比例する。けれども、ぼくには秋葉原の件は少し違って見えている。貧困社会に犯罪が多いのは「物盗りが増えるから」という側面が少なからずあると思う。それは端的にいって「パンを奪う犯罪」である。本当に食い詰めたなら、そうなるのが自然だろう。その点、件の容疑者はパンを狙ったわけではない。無差別殺人である。鬱憤を晴らしたり、世間の耳目を集めたりする効果はあっても、腹を膨らませる効果はまったくない。だから、貧困による犯罪という文脈であの通り魔事件を語ることに、ぼくはいくばくかの抵抗を覚える。

今日食う飯の調達もままならない。もう1週間近く物乞いをしてなんとか食いつないでいる。これを貧困ではないという人はまあいないと思う。本当に食い詰めている状態を、ここでは絶対的貧困と名付ける。一方で、加藤容疑者のような状況がある。職自体が不安定で収入も世間の平均的な所得と比べてぐっと見劣りする。それでも飯が食えないということはないし、ときには秋葉原で遊び、インターネットを利用でき、携帯電話だって持っている。絶対的貧困とは明らかに違う。そんな彼を貧困たらしめているのは所属社会の相対的富裕層の存在である。これを相対的貧困と呼ぶ。

日本中が加藤容疑者くらいの生活レベルだったなら、彼の労働環境は特別に彼の心を傷つけたりはしなかったろうと思う。けれども、現実には自分の境遇を自嘲し、悲観し、絶望しなければならないほど、その生活は周囲より劣って見えた。人はただパンのみに生きるにあらず、とは残酷な真実である。誰もが生きてるだけで丸儲けと思えるなら、相対的貧困など問題にはならない。日本はいまだその程度には裕福である。つまり、犯罪のトリガーになったのは貧困そのものではない。相対的貧困が生む精神的負のスパイラルである。だからこそ強盗ではなく無差別殺傷なんだろう。

そして、問題は敷衍される。非コミュ、非モテ問題だ。相対的貧困と非コミュ、非モテはまったく同じ構造をもって人の心を蝕む。これらはどちらも「平均的人間」より劣っている自分を見い出すシステムなのである。本来、優劣というのは主観的なものである。ある面で優れた性質が他方面では劣った性質になるなんてことはいくらでもある。しかも「平均的人間」など幻想である。幻想との勝敗で自分の価値が決まるなんて馬鹿な話はない。本当の意味で多様な価値観を持つべきだ。負の感情は自家中毒を起しやすい。ダメだと思うから余計ダメになるということは確かにある。

だから、派遣労働者の地位向上なんて不要だとかいっているのではない。もちろん制度的に是正できる格差は是正するに越したことはない。相対的貧困が絶対的貧困に雪崩れ込む可能性も低くはないだろう。セーフティネットは常に検討されるべきだと思う。それでもなお、あらゆる局面で格差はなくならない。所得格差も恋愛格差もその一面に過ぎない。完全な平等などないことは自明だ。ならば、格差自体が不幸なのではないと知ることは無意味ではないと思う。ダメなだけな人間などいない。自分はダメだと本気で思い込んだとき、ぼくは無差別殺人者にならない自信はない。

視野狭窄に陥って人生をただただ悲観する。それだけはすまいと自戒を込めて思う。

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まさに仰るように、秋葉原での凶行は全くのところ「パンを奪う犯罪」でないのですよね。
後述しますが「社会への復讐」「思いつめての暴発」と言えるようなものですらないと思う。
彼の立ち至ったどん詰まりの場所は、具体的物理的なそれではなく、意識の上でのものである。その意味において、派遣労働者の雇用条件云々といった具体的議論は、事件と直結するものではない。その議論自体の必要なり重要性は措いて。

「相対的貧困」による劣等感が発生するには、前提としてまず同じ土俵、共通の場が意識されていなければならない。「場」をどのように設定するか次第で、格差意識はどのようにもあり得る。
犯人加藤の意識していた「場」はいかなるものだったか…
同時代人の感覚だけを担保にひとまず論証抜きに乱暴に言うならば、それはつまりネット世代の社会観そのものであると思うのです。
どんなに狭隘な視野でもってどこを切り出そうといずれ同じような、奇妙なまでに画一的で陳腐な言論、あるいはそれ以前のイディオム・ジャーゴンで再構築された世界。日本語ネット空間を下敷きにおいた、世界大に希釈された共同幻想の場。

実際の人間の争闘は、実はどんなズルもオプションとしてはありなら全ては運次第ですらある、つまりは例外の集積なのだけれど、単純すぎるシミュレーションの中では、故意にランダマイズの要素を入れない限り「スペック」の勝るものが必ず勝つ。
先日のエントリでの「キモメンの呪縛」に敷衍するなら、それはただはじめの一歩を目をつぶって跳ぶことへの怯えというだけでない。彼らの世界においてはすでに十分過ぎる敗北がそこにあり、その上に物理的にフラれるという事象を重複させる意味がどこにあるの?という…

そうした「あらかじめ敗北を体験してしまう人々」の、ごく典型的な一人による「自殺」が先日の事件だったのだと見えるのです。
曰く、人生オワタ。死にたい。でも自殺などというあまりにも大きな決断が下せるわけでない。無力感に囚われた人間には、自分の決断という特別の(あるいは無宗教者にとっては至高の)価値は存在しない。
つまりは死なずに死にたい。そのあからさまな矛盾の最も怠惰な解答が、無差別殺人による「社会的自殺」であったのではないか。
何の警戒もしていない通行人を不意打ちするほどたやすいことはない。適当に暴れて取り押さえられれば、そこで自由とプライドを持った(あるいは負わされた)一個人としての自分の人生はその意味を失う。もともとなかったも同然になる。
実は自暴自棄の高揚も、敵意すらもそこにはない。毒ガスが隣人を巻き添えにすることももとより考えないモノグサな自殺と同じく、なるべくラクな自殺方法を…というコンセプトが自動的に導いた地点でしかない。私はそのように見ました。

このコメント(というにはあまりにも自論の開陳でありすぎるけど)、「キモオタは犯罪者予備軍って言いたいだけだろ」みたいな反発があっても意外ではないが、コメント者同士の議論にはここでは応じられません。と予め申し添えておきます。

> nbさん
あの事件が「なるべくラクな自殺方法」として選ばれたという見方は、なるほど、なんとなく解かるような気がします。ともあれ、仰る通り、ぼくのエントリーに直接関わるというよりは、これを受けての別な視点からのご意見といった内容ですので、ここで細かく触れることは控えます。ただぼくは、考えれば考えるほど悲観的になるこうした問題に、一筋でも光を見出したいという動機でこのエントリーを書きました。上目線ないい方になるかもしれませんが、「あらかじめ敗北を体験してしまう人々」には、それは全然「敗北」なんかじゃない、或いは、そんな「敗北」は人生に決定的な影響を与えたりはしない、ということをなんとか実感して欲しい。そんな勝手な願望を文章化しているところが、実のところかなりあったりします。

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