自分は不謹慎ではないと無邪気に信じられる人たちの不思議

個人による報道が不謹慎だという非難はどこまで妥当なんだろう。

Recently - 秋葉原刺殺事件に遭遇して
秋葉原で通り魔、トラックで次々とはねてナイフで斬りつけ、7人が死亡 - GIGAZINE
秋葉原通り魔  事件発生現場の様子 - アキバBlog
2008年6月8日に秋葉原で発生した通り魔事件 まとめwiki - トップページ

居合わせた人たちのモバイル端末が事件の様子をマスよりも早く捉えた。そして、素人による1次情報は映像、画像、テキスト情報としてWeb上に流され、2ちゃんねるやはてななどを通じて多くの人たちに伝わった。中でもWebカメラで実況された事件映像は、かなりのインパクトを与えたようだ。そして大方の予想通り、個人報道に対する批判が持ち上がった。曰く、不謹慎ではないか、曰く、無責任ではないか、等々。こうした批判を見るにつけ、思う。これだけ情報技術が発達しても、相変わらずそれを受信する側は情報に対してずいぶんとナイーブなんだな、と。

いうまでもないとは思うけれど、情報というのはそれ自体に価値があるわけではない。単純な話、誰にも知られることのない情報は存在していてもまるで無価値だ。価値は受け取る側が決めるものだからだ。そして、そうである以上、発信する側がその価値を決めることはできない。送り手の思惑などは意味を持たないのである。もちろん、その思惑自体を情報として発信すれば、それもまた受け手によって価値を判断される。つまり、発信者が情報の価値を決定できるのは、発信者と受信者が同一の場合だけということになる。これは個人的な手記やメモの類である。

だからぼくは、一部の人の不謹慎だという感想は情報の価値を決めるものではないと思っている。同様に「これはかなり楽しんでいたと思います」という発信者の発言も、さほど件の中継映像の価値を左右するものではないと思っている。そもそも、これを不謹慎だという人たちは報道の大儀というものを本気で信じているんだろうか。社会的意義があるから報道が存在していると本心から信じているんだろうか。そして、その社会的意義をマスコミが背負っている、と?ぼくにはその感覚の方が信じられない。リテラシーなんてただの流行り言葉にすぎないのだろうか。

ニュースなんてものは瓦版の昔から人の好奇心を満たすためのエンターテイメントでしかない。もちろん、凶悪犯罪情報が出回ることで、ある方面では犯罪抑止に繋がったり、防犯意識を高めたりする効果があるかもしれない。けれども同時に、他方面では犯罪助長に繋がったり、野次馬根性を煽ったりする効果だってあるだろう。幼稚園で幼児30人を惨殺、なんてニュースを聞いて性的興奮を覚える人たちを、ぼくたちはコントロールすることもできないし、事前に感知することもできない。だから情報は悪だというなら、すべての報道は否定されるべきだろう。

或いは、個人報道の信憑性を問題にする向きもある。そういう人たちは、マスコミ報道の信憑性をどう考えているんだろう。また、報道被害が起こったとき個人ごときがどう責任を取るつもりだという批判もあった。これはマスコミなら報道被害に対して必要十分な責任が負えると信じての発言なんだろうか。そもそもテレビやネットで秋葉原のニュースに釘付けになった人たちは、負傷者の回復を祈り死者の冥福を祈るために、ただ真摯な気持ちで一部始終を見詰めていたのだろうか。それとも、それ以外に何か社会的意義や大儀を持って情報を求めたのだろうか。

興味、関心、好奇心、野次馬根性…不謹慎というならすべてが不謹慎だろう。


【関連して読んだサイト】
GIGAZINEの事件報道にウェブの明日を思う - novtan別館
はげあたま.org - 秋葉原の事件とUstream
通り魔事件被害者に「お悔やみ」を言う理由
発狂した地獄を覗き見た男の破滅と栄光 / モバイルブロードバンド時代の報道
当事者じゃなくなればとたんに観客になる人々ってなんだかなあ - novtan別館
「観客になる」のは「非日常」から自己を守るための儀式みたいなものでは。 - 想像力はベッドルームと路上から

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/353

comment - コメント

必要であるかどうかと、不謹慎であるかどうかは別問題でしょ。
俺が被害者ならなんでこいつ等が刺されなかったんだろうと思うけど。

> Anonymousさん
そうですね、被害者やその近親者なら何かにぶつけたい負の感情が湧き起こって当然だと思います。ただ、それが特に個人報道にだけ向けられて、マスコミに向けられないというのではおかしいと思っただけです。Anonymousさんのいう「こいつら」に新聞社やテレビ局は含まれていますか?

個人が叩かれるのは責任の所在がはっきりしないから。
新聞社やテレビ局なら文句をぶつけることが出来る。

> Anonymousさん
確かに、匿名の個人相手では文句のひとつもいえないという側面はありますね。マスコミ相手に文句をいったところで責任なんて取ってもらえるとは思えませんが、まだ文句をいえるだけマシということは、心情的にあるかもしれません。

「個人報道」への不謹慎であるという非難というものを誰がどこで言ったのか知らないのですが、
それがもし報道人・マスコミ側の言でもあれば仰るように、厚顔かつ無思慮な、あきれたことです。

ところで「個人報道」のハブとなる媒体の筆頭はやはり2ちゃんねるですが、
2ちゃんねるの口コミは「厚顔さ」から免れているかと言えば全くそうではない。
「マス」というジャーゴンからは、既存マスコミのそれをそのまんま裏返しにした「一般の素人だから、口コミだから善」という思考停止の姿勢が臭ってならない。

既存マスコミ人がネットの口コミに対し、自分たちの聖域を侵す不埒者どもと内心恐れたり、しょせんバカガキどものゴッコ遊びと見くびったりするのでなく、自らの厚顔無恥を実によく写したカリカチュアとして認識したならば…
これまでどおりにやっていたのでは2ちゃんと大してかわりゃしねえ、と前向きな危機感を持つ契機になり得るのになあ、と思います。全く期待はしてないけれども。

非常な悪文失礼いたしました。まるで意味不明なら私の不徳の致すところです。
「このエントリから連想した私の意見」に過ぎず、本来なら自分のブログに十分な字数を費やして書き、トラックバックするべきなんでしょうが。そういうものを持たないもので

すみません、強調のつもりでうっかりヤマカッコで括った部分が、不明なタグと解釈されたらしく、表示されておりません。
×「マス」というジャーゴンからは
○「マスゴミ」というジャーゴンからは

> nbさん
既存のマスコミと2ちゃんねるに代表されるクチコミを単純に比較するなら、明らかにクチコミの情報はノイズが多いですよね。それは、妙な2ちぇんねる信者やなんかじゃない限り、一般に思われていることだと思います。だから多くの人は、ネットの情報を簡単に頭から信じたりはしない。少なくともマスコミ情報に比べれば、能動的に判断していると思います。
その意味で、ネットにマスレベルの情報がより多くより速く流されることで、既存のマスも同じ土俵で判断されるようになるのが、より健全な状況ではないかと夢想したりもします。そうなれば、自然、リテラシーへの意識も強まるように思います。
おっしゃるようなマスコミ人の態度を敷衍して、マスとネットが襟を正し合う関係は理想的だと思いますが、実際には相当に難しいでしょうね。特に劣悪だったり非道だったりするネット上の匿名のノイズについては、相も変わらず目を覆いたくなるものがあります。

ネットとマスコミが襟を正しあう…匿名が当たり前の日本語ネット空間では全くの夢物語と思えることが、もしこれが実名がごく当たり前で、「敢えて」匿名にしたけりゃそれはそれでご自由に、という状況であったなら、それだけであらゆる問題がクリアになってしまうなあ。と、ふと思いました。

マスコミの厚顔さはそもそも架空の「大衆」に向けて「こういうのが好きなんだろ?わかってるよ」とネタをバラまく一方通行の構造(そしてそのとおり喜んで消費する共犯関係)から醸成されたものであり…マスコミというよりマスプロ。
これが情報の採取・編集・発信・受信手段を各々が完備した顔のある人々相手となると、ホントにマス・コミュのターミナル・ハブとして、今とは次元の違う高度な役割を果たさなければ存在価値がほぼ無い。
が、ネットがみんな名無しさんである限りは従前と何もかわらない。
ネットの口コミメディアの多くが、むしろレトロ極まりない田舎選挙の怪文書レベルに留まる限りは。「噂真」みたいなルサンチマン的文脈で大手メディアを攻撃するのがせいぜいの。

別にネット利用は匿名が良いか実名にするべきか、という議論自体は私にとってどうでもよく、丸ごとただの夢想ですが。

> nbさん
情報にも市場の原理が働く以上、送り手と受け手の共犯関係はなくならないでしょうね。それは何もマスに限ったことではないように思います。すでにネットにおける個人の情報発信においても、読者を強く意識したコンテンツほどより多くの人に届き、瞬く間に消費されるという傾向が出始めているのではないでしょうか。はてな界隈など眺めていると、余計にそんな風に思えます。

問題は不謹慎だとかそういった部分だとお考えなんでしょうか?
倒れて苦しんで助けを求めている人がいるのに、救助隊の誘導や救助の補助もせず、カメラを回す。
人の命より一瞬のネタの方が大切。
こういった他人を人として見ていない行動があったからこそ叩かれているんじゃないでしょうか。
確かに情報は他人に伝わらなければ無価値かもしれません。
しかし、周辺に居た人が救助にあたることによって助かった命があったかもしれない、今も重症で苦しんでいる人の処置をもう少し早くできたかもしれない、そう思うとそういった犠牲をはらった情報ってそんなに価値がありますかね?

> Anonymousさん
ここで主に問題にしているのは、事件現場でカメラを回すことの是非ではありません。不謹慎かどうかを考えようという趣旨でもありません。彼らが「人の命より一瞬のネタの方が大切」と考えていたかどうかさえぼくには判断のしようがありませんから。
それはさておき、ぼくとしては、彼らを不謹慎だと非難する人たちは、その情報を享受している自分という存在をどう評価しているのかが気になっただけなのです。傍観者としてニュースを求める自分は、傍観者としてカメラを回し続ける存在と比べて罪深くはないのか。
もちろん、そうではない人もいるでしょうけれど、ぼくを含めて多くの人がセンセーショナルなニュースをどこかで求めているように思うのです。そういう自分を抱えながら、報道する側の行為を責めたり、或いは、マスコミを容認しながら個人報道を叩いたりする行動に矛盾を感じないのかといった点に引っかかりを覚えて、このようなエントリーを書いた次第です。
現場に居合わせた人間が人としてどう行動すべきだったか、という問題については、そういう立場に立ったことのないぼくには何ともいえないというのが正直なところです。今回の件に限っていえば、被害者を気遣うような行動を取った人も少なくなかったという話も聞きますし、必ずしも「倒れて苦しんで助けを求めている人がいるのに、救助隊の誘導や救助の補助もせず、カメラを回す。」というような状況ではなかったようですが。

「個人報道」への不謹慎であるという非難というものを誰がどこで言ったのか知らないのですが…
と前置きしてコメントした時点から今現在までに、とりあえずネットのあちこちでそういうナイーブかつ近視眼的な(純情な図々しさ、とでも呼んでみようか)意見をうじゃうじゃ目にしました。

ネットの言論は往々にして、何かことあるごとに誰が「不謹慎」であるだの、いや「マスゴミ」こそ悪いだのというような不毛な争点に収斂し、そこであらかたの熱を費消して結局は速やかに立ち消えていく…と見えます。

秋葉原の事件は特別異常な人間の仕業でなく、ごく平凡な「負け組」意識を分け持つ一人が惰性のままに至った地点である、そういう現状認識の居心地悪さから、つまり多くの人が事件の勘所は掴んでいるからこそ無意味な議論に逃げ込むのかな。

少なくとも例によっての感情的な「犯人叩き」が今回はまるでどこからも聞こえないですよね。
そうした意味では画期的な事件だと感じます。

> nbさん
「そういう現状認識の居心地悪さから」という点でいうと、今回の件についてはどこまでも他人事な層がいる一方で、犯人の心情にシンクロする層がもの凄く多かったように思います。もう少し具体的には、不謹慎云々など表層的な議論に流れる「自分は違う」という無邪気な人たちと、派遣問題、非モテ・非コミュ問題、格差問題など各論に流れる「自分も仲間」という過剰共感層といった感じでしょうか。特にネットで活発な言論を繰り広げる人たちの場合、後者の層が世間的な平均より多いような気がします。この辺りも「犯人叩き」の声が聞こえてこない一因のような気がします。もちろん、犯人そのもののキャラクターより周辺に話題が豊富すぎたという側面もあるとは思いますが。

論旨を正確にするためかも知れないけど、極論だと思うよ。
どうあがいたって平衡点を見つけるしかないんだから、
今後の落ち着けどころを何処にするかを論じたほうが有意な気がする。

> Anonymousさん
こうした個人報道が今後どんな展開を見せ、どんな価値を生み、どんな害を及ぼすのかはあまりにも未知数です。この一件をもって今後の落ち着け所を探るのはかなり難しいですね。事例が増えていく中で、利を活かし害を除くためにはどうすべきか、追々考えていくしかないのかもしれません。このエントリは、そうしたことを考える前に頭を一度リセットするための問いかけ、くらいに思ってもらえればいいかと思います。

コメントを投稿

エントリー検索