主観ノイズを減らせば世界が変わる

前エントリにも関わるノイズについて、もう少し思うところを書いておく。

304 Not Modified: インターネットで情報収集するときに必要なこと

ノイズを許容しなさいというリンク先の主張は重要だと思う。ノイズのないウェルメイドな情報ばかりを求める。その手の受動性は、インターネット自体を諦めるという極端な結論を招きかねない。また、過剰なノイズリダクションは情報の多様性を圧殺してしまう。これではインターネットが齎す豊穣を十分に享受できなくなる。重要なのはノイズ判定の精度をあげることだ。ソフトウエア的なフィルタリング技術向上に期待せよという話ではない。自ら脳の判定精度を鍛えようという話である。情報の排除率を上げるためではなく、下げるための精度向上である。

強度のない脆弱な価値観はノイズ許容度を下げる。排他的になる。自分の価値観を守ろうとする力が大きく働きすぎるせいだろう。たとえば「○○死ね」みたいな情報をノイズと見做す。これはまあ、間違いではないと思う。もちろん、その裏に何か重大な批評性を孕んでいる可能性はゼロではないだろうけれど、それを見出せる可能性は相当に低い。それらすべてを検証できるほど個人の時間はあり余ってもいない。けれども、自分の現在の価値観から外れるものをすべてノイズと見做すとなれば話は違ってくる。そして、そういう拒絶行動はネット上に少なくない。

最近の流行でいえば「○○ですね、わかります」式の皮肉が、ほとんどパターン化した思考停止の代表になりつつあるように思う。或いは、この手の話題にはこう反応する、みたいな定型ができあがっていたりもする。新しい法案が通ったらとりあえず政府の無能を非難するとか、事件報道を見ればマスゴミのオタク叩きだと非難するなど、的を射ている場合は問題ないし、批判すべき点と受け入れるべき点を区別できているならいいのだけれど、重箱の隅を突付いて非を見出しては全体を非と決め付ける、そんな狭量な姿勢は自ら視野を狭める役割しか果たさない。

こうした傾向はブログのコメント欄やはてブコメントにも頻繁に見られる。もちろん、「馴れ合いや言葉遊びで情報を高速消費して暇を潰してるだけ」とか「有意義なネットライフなんて端から求めてねぇんだよ」というありようを否定はしない。そういう認識が自分の中に確立していて、それなりに充実した人生を歩んでいるなら何も問題はない。幸せなことだと思う。ただ、狭量な価値観に雁字搦めになって自ら人生を生き難くしてしまっている、そんな人もいるんじゃないかと思うのである。そこから抜け出すためのツールがすぐ目の前にあるにも関わらず、だ。

他の価値観を無闇に拒絶しない。主観ノイズは減り、少しは世界も違って見えないだろうか?


【関連して読んだサイト(追記)】
CONCORDE: インターネットで情報収集「以外」をするときに必要なこと
#既に似たようなお話が…最終的に届けたい気持ちと相手は違うけれど、概ね賛同。

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comment - コメント

音響の比喩に乗っかって言うと、ネット上の「ノイズ」は決して満遍なく分布したホワイトノイズじゃない。ハウリングを起こしてますよね。
なるべくしてそうなるように、サーキットが形成されている。

傍で聞いてるだけでも耳に悪いような、そんな悪質なノイズの中にも「正論」はありうる。原則としては。
「的を射ている場合」こそが問題なのではないでしょうか。
確かに中国がチベットでやってることはとんでもない「悪」だろうが、それについてチャんころがどうのとひたすらノイズな定型句をネットに書き付けて喜んでる人たちは、実は自分が根本的に現実の問題そのものにコミットできてないことに気づかない。「だってあいつらはほんとうにわるいから」と。

あるいはまた「暇を潰してるだけ」というポーズが曲者ですね。
そんなどうしようもない行為が楽しいということそのものが、思考停止を快とすることがどれだけ自分を蝕んでいるかに気づかない。「だってネタだから」と。どう転んでも自省とか応用の契機を欠いている。

どうも言葉尻にばかりひっかけて、記事からすると方角違いの話ですみません。
そういうのはイヤな人は本当にイヤだろうな、とは思いますが…その言葉は、そういう意味/文脈で言ったのではないのに…と。

この記事でlylycoさんが書かれていること自体には、全く異論はない。さまざまな人に向けた、原則としては。
私自身はそのようにアンテナの感度高くしておこう、間口はできるだけ広く構えよう…とは全く思っていません。自分が直接求める限られたものと、あとはイヤでも入ってくるものだけで十分というくらいの気でいます。

> nbさん
ここに書いてあることが、誰にとっても有効だなんてことは、もちろんあり得ません。既に自分にとって有効な世界の見方を持った人には、そもそもこんな説教臭い提言は不要でしょう。ぼくとしては、たとえば仰るような「思考停止を快とする」人たちにこそ、まぐれでも届けばいいな、くらいに思っていたりします。
それは、ぼく自身がどこかでアンテナ感度をあげることに快楽を見い出しているせいかもしれません。であれば、「世界を広い目で眺めようよ」という考え方それ自体が極めて個人的な価値観の表出にすぎないのでしょう。そして、ぼくには結局のところ今の自分の、極個人的な価値観に基づく言葉を書き連ねる以上のことはできないのだと思います。だから、そうではない見方もあるというコメントは、ぼくのエントリに広がりを与えてくれているという意味でとても有り難いものだとも思っています。

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