リテラシーの向上は世界を虚構にする

メディア・リテラシーなんて言葉が喧伝されるようになって久しい。

ネットやってても、キミの世界観は広がらない - Attribute=51

これも、要するにリテラシーの話なんだろう。一般に、物事を相対的に見るというのは大切なことだと思う。何かを無批判に信じ込むことで被る損失というのはあるだろうからだ。この株絶対上がりますよなんてカリスマトレーダーに唆されて、サラ金で限度額まで借りて買い付けて暴落して破産しても誰も責任を取ってくれないのと同じように、マスメディアもインターネットも責任を肩代わりしてはくれない。信じるという行為は何かを選択していることと同じである。マスの論調を信じて投票した政治家が当選して日本を沈没させることだってあり得るのだから。

たとえば、マスメディアのいうことは信憑性が高いものが多いかもしれない。とはいえ、無責任な発言も溢れている。単純な話、NHKの報道と民放の報道バラエティでタレントが反射神経で述べる私見とを等しく信じる姿勢は、穢れを知らないともいえるけれど、ちゃんと頭使えよともいえる。爆笑問題が好きな人は太田某のいうことを信じやすいだろうし、世界のキタノを尊敬する人は彼の発言を無批判に受け入れる可能性が高い。それをイケナイというつもりはない。それが自分の価値観だからである。もちろんNHKだから信じるというのも姿勢としては大差ない。

これはインターネットだって同じだ。毎日読んでるアルファブロガーの提出する情報を信じる、或いは、2ちゃんねるに書き込まれたマスに流れない裏情報を信じる。それ自体は別に悪いことじゃない。リテラシーを気にしたいなら同じ話題をネットの海からいくらでも掬い上げて検討してみればいい。そしてテレビ、新聞、雑誌なんかとも比較してみればいい。で、お腹一杯情報を集めてどうするのか。大勢の意見を信じるのか、一番声の大きい意見を信じるのか、はたまた自分の信念に合った情報を信じるのか。それで、その信憑性は何が保証してくれるのか。

人は結局のところ信じたいものを信じるしかない。リテラシー向上の先にある結論はこうだ。何かを本当に証明することなんて誰にもできないのだから。どんな説明体系を信じているかで世界はまるで違って見えるだろう。どれが真実かなんてわからない。一見レベルの低い愚民政策にすら気付かず、搾取され、情報被害に遭っていても、それを知らなければその人は不幸ではないかもしれない。それはマトリックスの世界が虚構だと知ることが、必ずしも幸せに繋がらないのと同じことだ。世界観を広げるメリットがどれほどのものか、一概にはいえそうにない。

畢竟、人は自分だけの「真実」を生きる以外にないんだろうと思う。

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