インターネット時代の「知識」を生かす能力とは?

知識が知識単体ではさして意味を持たないとは、Google以前からよく聞かされた話である。

「知っている」それ自体にはもはや何の価値もない - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
知識の価値は - novtan別館

必要な時に必要十分な、或いは、それ以上の知識を引き出せる。それができて初めて知識を持つ意味がある。そういう考え方はインターネット普及以前から連綿としてあった。ぼく自身は、純粋に娯楽としての知識というものがあっても構わないと思うけれど、それはそれでトリビアだとかいわれて別枠扱いになっているのかもしれない。ともあれ、適宜その場で必要な知識を取り出すためには当然知識が必要だ。そして、その昔、知識の在処は脳とペーパーメディアだった。だから、生き字引だとか呼ばれる人たちは、その知識を運用することで尊敬もされたし、頼りにもされた。

逆にいえば、どれだけ知識を持っていても、うまく運用できない人はやっぱりあまり尊敬はされなかっただろう。もちろん、「物知りだね」くらいはいわれたかもしれないけれど。つまり、知識は「運用能力」とセットになって初めてその有用性を認められてきたのである。そして、インターネット以前と以後で変化したのはせいぜい知識の保存場所くらいのもので、運用能力が問われていることに変わりはない。ハサミを持っていても、どこの引き出しに仕舞ったか分からなければ使えないし、そもそも問題に直面した時にそれがハサミで解決できると判断できなければ意味がない。

つまり、必要なのはまずいつでもハサミが取り出せること。そして、より肝心なことはハサミがどんな場合に有用か判断できること、だ。そのためにはハサミの有用性を知り、適切且つ応用の利く関連付けを行っておく必要がある。たとえば、ハサミを「紙を切るための工作道具」とするか、「ある程度薄くスチールより柔らかい物質を切ることができる道具」とするかで、後々の運用の幅には大きな差が出てくる。話を知識一般に広げれば、ハサミどころではなく漠然として自由な関連付けが想像されるはずだ。しかもそれは、必ずしも言語化可能な関連付けとも限らないだろう。

こうした知識の関連付けは、たとえばソーシャルブックマークをタグで管理するのに似ている。「これはいつか役に立ちそうだ」とブックマークしたページが肝心な時に取り出せない。タグ付けに失敗するとこういうことになる。これではブックマークした意味がない。いや、ただ自分のブックマークリストを見て、「こんなにたくさん素晴らしい情報を収集したぜ」と悦に入るのも別に悪いことではない。それは、博識たることだけを目的とする知識の収集に似ている。ただ、あくまでも有用性を求めるなら、どんなときに参照すべきか判断し適切なタグ付けを行うことが大切だ。

つまり、知識をよりよく生かすのは知識に適切なタグを付ける能力といえるかもしれない。

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