中二病を中二病と見抜くことは難しい

人の言葉遣いが鼻につくというのは割と誰にでも身に覚えのある話だろう。

理系は使わない言葉
プライドの高そうな表現 - 蟹亭奇譚

こういうとき、大抵、読み手は書き手を下に見て苦言を呈する。けれども、その批判が、或いは、その皮肉が、本当に的を射ているとは限らない。これは書き手が一枚上手だろうというケースだってある。言葉に対する認識や感度は、必ずしも直線的に成長するわけではない。小難しい表現や比喩を覚えたことが嬉しくて、つい濫用してしまう。確かにそういう時期もあるに違いない。実は、苦言を呈する人の多くも、そんな経験を持っているんじゃないかと思う。というのも、他人の言動が過去の恥ずかしい自分を見ているようで気に入らないというのは、よくある話だからである。

そうやって、小難しい言葉や古風な比喩表現や門外漢の知ったかぶったような言葉に拒否反応を示す。これがネクストステップである。あえてスラングを使うなら中二病といってもいい。けれども、難しい言葉には難しい言葉なりの意味がある。使いどころもある。古風な表現だってそうだし、門外漢が原意を離れて使い始めた比喩表現だって同じだ。言葉にはそれを許すだけの柔軟性がある。それは、「正しい日本語」や「美しい日本語」といった議論が、言葉の持つ際限のない柔軟性の故に雲散霧消せざるを得ないことからもうかがい知れる。それに気付けば中二病期は卒業だ。

中二病期を乗り越えると、意味のない見栄と意味のある故意との区別がある程度つくようになる。そして、見栄の方もさして気にならなくなる。そもそも、言葉は使わなければ血肉にならない。使っていくうちに、どうにか自分なりの使い分けができるようになる。そうなって初めてその語彙は説得力を持ち得るのである。つまり、濫用期も中二病期も、その言葉を自分のものにするためにはある程度必要な行程なのである。もちろん、最初からあらゆる言葉をうまく使える人もいるかもしれない。けれども、そう多くはないはずである。試行錯誤を否定して成長することは難しい。

ことはこれだけでは終わらない。今度は、濫用期や中二病期の人たちに「あえて」苦言を呈する人がでてくる。濫用期や中二病期には「気付き」が必要だからである。つまり、彼らの言動を微笑ましく思いながらも、あえて彼らの成長のために野暮な突っ込みを入れるのである。誰かが濫用期の若輩をやり込める姿を見て、ああ中二病患者だ、と思っていたら、実は濫用期も中二病期も卒業して、螺旋の一周上をいっていたということは十分にあり得る。批難してみたはいいけれど、周回遅れは自分の方だったなんて話はきっと珍しくない。最後まで気付かないことだってあるだろう。

こうやってぐるぐると螺旋を昇りながら、たぶん人は何度も同じ結論に辿りつくのである。

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comment - コメント

自分自身の「気付き」には、必ず第三者の意思による「野暮な突っ込み」が必要なのでしょうか。

濫用期も中二病期も卒業したならば、たとえその人の為とはいえ、「敢えてつっこむ」ことに対して、多少の躊躇を感じることもあるかもしれない、ちょうど今のわたしみたいに。
そのとき、今つっこまなくて誰がつっこむんだ!濫用期も中二病期も卒業した者の責務として「気付か」せなければならない、と思うのでしょうか。或は、自分がやらなくても誰かがやるさ、と思うのでしょうか。
前者は自身の自惚れ(人によっては見下されていると感じるかも)であり、後者は目前の事態に対して無責任だと思います。なにやら両方とも大人げない対応に見えてきます。わたしとしては、どちらのレッテルも心情的に受け入れがたいものがあるのです。
そんなときには、「人は自然に気付き、成長していくのさ」と自分や誰かではなく、とりあえず当事者自身の可能性を高く評価だけして終わる、というのも有りかもしれません。しかしそれは裏返せば、「自然に気付けなければ、気付けなかった奴が悪い」という自分の身を汚さぬための言い訳にも思えます。卑怯さすら感じます。

相手の問題ととらえるか、わたしの問題ととらえるか、それを決めることすら躊躇するわたしは、情けなさを日々痛感しています。

> peace or warさん
気付きのチャンスは当然色々とあるでしょうね。別に、突っ込まなきゃなんて使命感に駆られる必要はないと思います。誰かのためというのを傲慢だと考える人もいるでしょう。極論すれば、自分のためにしか生きられないのが人間だ、ということもできると思います。そして、突っ込むか突っ込まないかというのも、いずれ「わたしの問題」でしかないんだろう、とも。だから、突っ込むべきか否か、という問いには、やりたきゃやればいい、というような無責任な返事しかぼくにはできません。そして、大抵のことはそのまま気付かなくたって、特に重大な問題ではなかったりもするのでしょう。

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