あらゆる意味で知性から程遠いエントリー

はたして、ぼくは知性的か。或いは、知性的な文章を書けているか。

テキストに知性があるかないかを見分ける10のポイント - ハックルベリーに会いに行く

思わず自分のブログを思い浮かべて暗澹たる気持ちになった。なるほど、ぼくの文章には知性が著しく足りない。ならば、aureliano氏のいう10のポイントを心がけて知性ある文章を書こう。そう思った。浅はかだった。10のポイントに留意して「知性的」な文章を書いたところで、ぼくの知性は変わらない。変わるはずがない。知性的な文章を書くことと当人に知性が満ち溢れていることとは必ずしもイクォールではない。つまり、リンク先に書かれているのは「あの文章には知性がない!」と人の文章を貶す役には立つけれど、ぼくの知性を高める役には立たないのである。

そして思った。知性的な文章というのは、知性が多少足りなくても、訓練と心がけ次第で書けるようになるのかもしれない、と。自分に知性が足りないなら、せめて知性的に見える文章だけでも書いてみたい。さっそく10のポイントをもう一度おさらいしてみた。ダメだ。ぼくにはできない。ポイントその2でもう躓いてしまった。何しろ、ぼくには難しい言葉と平易な言葉の区別がつかない。誰にとって難しい言葉は非知性的で、どこまで平易な言葉で語れば知性的なんだろう。早くも知性的な文章がぼくの手から遠ざかっていく足音が聞こえる。が、まだ諦めたくない。

次だ。なるほど、スピード感を重視するときに「からい」を「辛い」と書いてはイケナイのか。つまり、緩急をつけたいなら「からい」と「辛い」を使い分ければいいわけだ。ん?これはもしかして、その1にあった文章全体の統一感に反するのか?マズい。どちらを優先すべきなんだろう。判らない。まあ、いい。そんなのはきっと知性的文章の上級者が悩むべきレアケースに違いない。次。ディテールへのこだわりが知性を宿らせる唯一にして絶対の方法、と。なるほど。むしろ、これだけを守っていればいいってことか。何しろ、唯一にして絶対というくらいだ。

とはいえ、10もポイントがあるのに、これ1つで十分なんて本当だろうか。一応、その5以下もおさらいしておこう。…ダメだ。またもやぼくの知性が否定されている。外来語のカタカナ表記に美しく正しい表記があるなんて知らなかった。本当に知らなかった。確かにぼくは、外来語リテラシーが低い。「ビジュアル」か「ヴィジュアル」かと問われても、「好きにすれば?」とか思ってしまう。ちなみに、「ビジュアル的」なんて日本語の美しさも、「ぼく的」にはまったく理解できない。いや、自分でも便利に使いがちだから、美しいというならいいのだけれど。

その6についても、すでに過去のエントリーがぼくの知性を否定している。非モテとかキモヲタとかとにかく酷い。ちゃんと「異性同性を問わず友好的な関係を築くのが非常に不得手な人々」とか「気持ち悪いと人に思われるほど何かにのめり込んで周囲を顧みられない人々」とか書いておくべきだった。以後は気を付けよう。次の「ビジュアル的」な美しさについてだけは、少し気を配っているつもりだ。ぼくの場合1段落の文字数を極力同程度に揃えている。これだけでも少しは知性的に見えているんだろうか。まあ、7つ目にして1つくらいじゃ焼け石に水だろう。

次…ぼくの自己弾劾の情熱もそろそろ限界だ。いや、その8とその9は、もうポイントと呼べるほど、文章表現における「ある1点」をついているようにすら読めない。自分の読解力のなさにホトホト呆れる。「強度」や「身体性」とはそれっぽく便利な言葉で、ぼくも何か足りないときにはよく使わせてもらうのだけれど、そんな失礼な使い方に慣れてしまったぼくにはaureliano氏の本意が汲み取れない。この文章をWordに貼り付けて縦にしたりフォントを変えたりしてみたけれど、何も解らなかった。文章を解する知性どころか感受性すらないのかもしれない。

ここまで書いてはたと気付いた。ぼくに足りないのは、何より情熱かもしれないと。

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