難しいことを誰にでも解る言葉で伝える

これは文章に対する感覚として、とても共感しやすい話だと思う。

ブログを書くときの意識 - タケルンバ卿日記

個人のスタイルの話でもあり、特に異論を唱えるような内容でもない。ただ、中に気になる一文がある。「理想は『高度な内容を、誰にでもわかるように』。」というそれだ。この理想、割りとよく目にする。いい回しに異同はあれ、似たようなことをいう人は多い。別に上げ足を取ろうというのではないけれど、たとえば「誰にでも」というのは理想というより夢想に近い。あえて極論をいえば、日本語で書かれた文章は日本語を解する人にしか読めない。そういう境界は、実のところ、かなり普遍的に存在する。あらゆる文章は、望むと望まざるとに関わらず読者を選ぶのである。

当然といえば、当然の話である。そして、逆にいえば、書き手は伝えたい相手に伝わる言葉を選ばなければならない。英語しか解さない相手には英語で伝える。小学生相手ならその学習レベルに合わせた言葉で語る。インターネットについて書くにしても、相手が業界人か、ネットジャンキーか、メールすら不如意なビギナーかによって表現はまったく違ってくる。ここで注意すべきは、ビギナーにも解るように書くことは、必ずしも読者層の拡大に貢献しないということだ。大抵の場合ビギナー向けに書かれたものは、熟練のネットジャンキーや業界人を読者層から排除してしまう。

言葉や知識というのは、先人の知恵の積み重ねだ。その積み重ねを前提にすることで、初めて「高度な内容」を語ることが可能になる。ぼくは「高度なことを分かりやすく書いた本」の代表としてブルーバックスを読んだりする。初歩の科学的教養すら覚束ないぼくには、これくらいが理解の限界だと思うからだ。にも関わらず、相対論の本など読んでも十全に理解できたようには思えない。そもそも、それは相対論のすべてを伝えてもいないはずだ。相対論を小学生にも解るように書くことは不可能ではないかもしれない。ただ、それが理想的な相対論の本になるとは考えにくい。

その意味で、ぼくは「難しいことを誰にでも解る言葉で伝える」ことを理想とは考えない。せいぜい、「伝えたい相手に伝わりそうな言葉で語る」よう心がけるくらいのものだ。そして、漠然とこのブログは20代以上くらいを相手に、特別な専門知識の要らないレベルで話ができればいいな、くらいに思って書いている。はてな界隈の話題に割り込むときは、はてな独自と思われる語彙を使ったりもする。そういうときは、読者を篩にかけてしまうことも已むなしと思っている。そうした語彙でしか伝えられない言説はあると考えているからだ。伝えたいのは決して文意だけではない。

そして、伝えたいことを伝えるために解りやすさを犠牲にすることはあり得るとぼくは思う。

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