人生とは○○のようなものだ、という脳トレ(笑)

人生とは自転車のようなものだ。

アインシュタインの言葉だという。後に「倒れないようにするには走らなければならない」と続く。なるほど、なかなかに尤もらしい。そして実にアインシュタインのキャラに合っている。物理学者らしい発想だ。これを下敷きにしたのかどうかは定かではないけれど、スヌーピーの作者チャールズ・M・シュルツは「人生とは10段変速の自転車のようなものだ。誰もが、自分が持っているものの大半を使ってはいない」なんていっている。面白い。他にも色んな著名人が色んなものに人生を喩えている。検索すればそれこそ山と出てくる。

この「人生とは○○のようなものだ」というフレーズ、いまやほとんど言葉遊びの域に達している。実際、ジャズピアニスト山下洋輔のエッセイにも、何でもいいから目の前のものを手にとって人生について尤もらしいことをいう、という遊びについて書かれているらしい。ぼくはそのエッセイを読んでいないので出典を示すことはできないけれど、分かればちょっと読んでみたい。ともあれ、頭の体操に適当な人生の名言を捻り出すというのは面白いかもしれない。ついでだから、それらしい解説までつけて尤もらしく…。

人生とはバイキングのようなものだ。遠慮していては何も始まらない。

まずはできるだけ手広く、少しずつ色んなものを食べてみる。すべてが口に合うとは限らないからだ。それから美味いと思った皿に狙いを定めて、今度はそれらを中心に満腹するまで存分に食べる。食材の単価に気を取られるよりは、自分の好みに合った取り合わせでバランスよく戴く方が満足度は高い。無論、遠慮は論外だけれど、無理をするのも少し違う。価値に拘るなら、バイキングなどかなり一所懸命に食べないと元が取れない。ぼくのように一度にたくさん食べられないような人間は楽しむことを優先するよりない。

人生とは携帯電話のようなものだ。成長するほど本質が見えなくなる。

最近の携帯電話はすでに電話とはいい難い。だから電話が取れて単にケータイと呼ぶ方が実態に合っている。思えばぼくなどほとんどケータイで話をしていない。主にメールのための端末と化している。実際、こういう人は少なくないと思う。さらには、暇つぶしのゲーム機として、あるいはウェブ端末として、はたまたポータブル音楽プレイヤーやテレビとして使っているという人もずいぶんと増えているらしい。こんな具合に進化成長する内、所期の目的を離れて別な道を歩みだすことは決して悪いことではない。

人生とはホームビデオのようなものだ。一緒に楽しめる人は限られている。

子供ができるとやたら写真やビデオに撮って周囲に公開したがる人がいる。大抵は他愛のない日常であり、他人には何ひとつ面白味のないシロモノである。そんなものを喜ぶのはその子の祖父母か、せいぜいがところ親類縁者くらいのものだろう。たとえある程度親しい友人だったとしても、初めて我が子が立った瞬間や、運動会でよたよたと走る姿や、幸せそうな寝顔なんかを延々見せられて退屈しないわけがない。その価値を本当に共有できる人間は極めて少ない。少ないけれどゼロではなく、それはとても大切な人のはずだ。

…とまあ、いくらでも作れそうだけれど、これだ、というものはなかなかできそうにない。ぼくには残念ながら大喜利のセンスはなさそうである。○○の中に目に付いたもの、思い浮かんだものを次々と放り込んでみる。意外な組み合わせほど、後付の理屈は面白くなりそうだ。小銭入れ、ブックカバー、色鉛筆、机の引出、郵便はがき、映画のチラシ…考え始めるとキリがない。人生という言葉は霞のように漠としてつかみ所がない。だからこそ、いかようにも表現できるのだし、それは何も言葉の上だけの性質ではないだろう。

本当に面白いものには答えなんてないのかもしれない。

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