「よろしかったでしょうか?」の違和感の正体

別に「日本語の乱れ」なんて話をしようというのではない。

「よろしかったでしょうか?」は日本語として正しいのか、みたいな話題はもう飽きるほどされてるんだろうと思う。ぼくは歴史的に正しい日本語みたいなものにそれほど強い関心はないし、そもそもこれまで慣用的に使われてこなかった語法なり用法が、新しい表現として定着することにさして抵抗はない。あるのは一時の小さな違和感くらいだ。ただ、先のような過去疑問には、いまだ違和感が薄れていかない。理由ははっきりしている。これは本来、「答えが用意された質問」だという思いがあるせいだ。だから、相手の意図を問うべき場面で使われると違和感を覚えてしまう。

たとえば、前以て喫煙ルームを予約したホテルのフロントで「喫煙ルームでよろしかったでしょうか?」と訊かれる。まったく違和感はない。これは「ぼくの意思の再確認」だからだ。或いは、久々に会った友人がスーパーの寿司コーナーで「サビ抜きで良かったっけ?」と訊いてくる。これも「ぼくの意思(好み)の再確認」である。要するに、相手に関して既に得ている情報の再確認というのが、この語法の自然な用法だろうとぼくは思っている。いい換えれば、フィフティ・フィティの返事を期待した質問ではない。「YESでしょう?」という意図を多分に含んだ疑問形である。

もうひとつある。ほとんど事後承認を求めるのに近いパターンだ。すでに焼肉屋の前まできて「焼肉屋でよかったっけ?」とか、もう禁煙席に向かいながら「あ、禁煙席でよかったですか?」とか訊くような場合である。これは答える側にとっては「No」とはいいにくい。いってもいいのだろうけれど、とても「Yes」と「No」の比重が同じだとはいいがたい。暗黙理に「Yes」を期待した質問といっても間違いではないと思う。つまり、同意を求めているだけ、或いは、念を押しているだけなのである。こうした質問もどうかとは思うけれど、過去形になっていることに違和感はない。

違和感を覚えるのは、このどちらにも当てはまらないケースだ。こちらから何の意志も伝えないし、まだ何の既成事実もない。にもかかわらず、過去形で質問される。こうなると、微妙な違和感を覚えてしまう。たとえば、コンビニで弁当を買って「温めてよかったですか?」とかいわれると、普通に「お弁当は温めますか?」でいいのになあと思ってしまう。なんだか温めるのが普通だ、といわれているような印象がある。もちろん、多くの場合、質問した当人にそんなつもりはないだろう。こちらとしても不快というほどではないし、目くじらを立てるほどの非礼だとも思わない。

ただ、返答にバイアスを加えられるような違和感がほんの僅か、残るのである。

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