素直に感心してすぐに忘れ去られるライフハック

老人や偉人や賢人や成功者や先駆者の言葉はありがたい。

けれども、そのありがたみは老人や偉人や賢人や成功者や先駆者になってみないと、なかなか解からない。身嗜みを整えろだとか、挨拶はきちんとしろだとか、人の嫌がることを率先してやれだとか、感謝の気持ちを忘れるなだとか、ハイハイゴモットゴモットモ。そうやって、若者は年寄りの言葉に反発し、凡人は賢人の言葉を疑ってかかる。ぶつかって、失敗して、立ち直って、成功して、またぶつかって…。そうするうちに、やがて彼らのいうことにも一理あるのかもしれないと思うようになる。素直に聞けるようになるにはそれなりの準備期間が要る。それを「経験」という。

つまり、ありがたい言葉というのはあくまで「気付き」のきっかけであって、いますぐ使えるマニュアルとしてそこにあるわけではない。タイムリーに「ありがたい言葉」に出会えることだってあるだろうけれど、普通はいずれ自分なりに咀嚼されたとき初めて役に立つ。少なくともぼくは、そういうものだと思っている。たとえば、古の格言や名言、創業ウン十年の会社の社訓、年寄りの忠告に親の説教、等々。質や量に差はあれ、どれもベースには「経験」の蓄積がある。それらは最大公約数的にまとめられ、汎用性の高い形で提示される。だから、どうしたって「陳腐」になる。

陳腐だということは、誰にでもいえるということでもある。だから普通は「誰がいったか」が大事になる。つまり、「ありがたい言葉」には権威が要る。そして、権威というのは持たざる者に嫌われるものだったりもする。反発、後に納得、というのはそのために必要なイニシエーションだった。けれども、最近のネットを見ていると時折、少し流れが変わってきたのかなという印象を受ける。富野由悠季の若者批判やら、どこかの年寄りの「深い」言葉やらが、結構、反発されることもなく支持されている。「ありがたい言葉」が、案外素直にありがたがられている。そんな印象だ。

経験の質や量に差がありすぎると、言葉は同じだけの意味を持ち得ない。だから、素直に聞くというのは、本来、すでに同じステージにいて初めてできることのはずだ。にもかかわらず、何か「効率的な方法論」ででもあるかのように「ありがたい言葉」を摂取する。先人たちの「ありがたい言葉」はいつの間にか、手軽に消費される「ライフハック」の一ジャンルになってしまったのではないか。大量消費される「ライフハック」が結局は身に付かないように、「ありがたい言葉」も気の利いた台詞のひとつとして素直に感心されすぐに忘れ去られる。が、それでいいのだとも思う。

いまや格言も名言も、すべてがエンターテイメントというフラットな土俵に載せられている。

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