そもそも日本語などというモノは存在しない

たとえ、世界に文字がアルファベットしかなくなっても日本語は亡びない。

「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記 ないわ~ 404 NotFound(暫定)
404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?

何故なら、日本語を日本語と規定しているものは、文字や文法や単語なんかではないからだ。たとえ、記述される文字がカタカナだけになってもアルファベットに置き換わっても、あまつさえ、現状の英語に限りなく近い文法体系に変容したとしても、日本語は日本語であり得る。そもそも、日本語というのは酷く恣意的な言語だと思う。ぼくは英語をまるで解さないけれど、あれは比較的ロジカルな言語だろう。言語としてのルールが確固としている。『ベオウルフ』の頃から見ればそりゃあずいぶん変ったろうけれど、16世紀やそこらの英語なら今とそう変わらないのではないか。

一方、日本語の変質ぶりは異常だ。いま、漢文と呼ばれる日本語を解する人がどれくらいいるだろうか。あれは中国語ではない。たとえ出自が中国だったとしても、変体漢文なんて独自ルールに基づいて運用され始めた段階で日本語である。漢字で記述された日本語である。いや、そこまで遡らなくてもいい。たとえば名文の誉れ高い中島敦の諸作でさえ、現代人にとっては注釈抜きで十全に理解することは難しいんじゃないか。これほどに酷い言語的な断絶がありながら、それらをすべて日本語だといい張る。その根拠が、記述される文字や文法なんかにあるとは、とても思えない。

言葉は必要に応じて生まれ、変容する。つまり、日本語は日本の文化なり日本人の精神性なりが要請した言葉の集積としてそこにある。たとえ今後時代の要請によって記述文字がアルファベットになり、現代英語風の文法体系を持った言語に席巻されても、その独自性を表現するための言葉は生まれ続けるだろう。逆にいえば、日本の文化なり日本人の精神性なりが、完全に地域性を失いフラット化されてしまえば、たとえ漢字仮名混じり文で記述されていようとも日本語としての独自性は失われるだろう。そして「完全に翻訳可能」な日本語はすでに日本語である意味を持たない。

つまり、いわゆる「英語」と文法や文字や単語をある程度共有することと、日本語が亡びることはイクォールではない。日本人として表現すべきものや、表現したいという欲求がなくなるときこそ、本当に日本語の亡びるときである。そこまで極端なグローバリゼーションやフラット化を望む人がどれほどいるのかは知らない。ただ、それはもう文化的な意味では「日本人」ではなく「世界人」である。そういう「世界人」が圧倒的多数になれば、そもそも日本語みたいなものは残す必要も意味もない。ただの歴史的遺物である。そのとき「日本」には地域名以上の意味はすでにない。

畢竟、日本語に言語的実体みたいなものはない。ただ、表現する日本人がいるだけである。

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