有害サイトフィルターより有害な脳内フィルター

インターネットは知見を広げるための恰好のツールだ。

もちろん自分にとって有意義な情報を見付けるには相応のスキルと忍耐がいる。それでも、はてなみたいなサービスやまとめサイトなんかを利用することで、ある程度効率的に関心の幅を広げられるようになってきている。とはいえ、利用者の増加とノイズの増加はおよそ比例する。中には見るに耐えない酷いノイズもある。規制に走る気持ちも解らなくはない。ただ、この手のノイズだけを完全除去することは難しい。不可能といってもいい。6月11日に可決成立した規正法にしても、実効性に疑問を持たれたり、恣意的な運用による過剰規制を懸念されたりしている。

確かに今さら検閲なんて時代遅れも甚だしい。リテラシーの高い層にとって規制など一方的に利便性を損ねるだけの悪法でしかないだろう。けれども、はてな界隈なんかを頻繁に眺めていると、ある程度以上インターネットに親しんでいるだろう人々の言動がどうもおかしい。見聞を広げるはずのこの世界で近視眼的観念に溺れている人が少なくない。情報の海に浸るだけでなく、色々な視点や見解に触れられる。それはネットの双方向性が生んだ、何ものにも変えがたい利点だと思う。にも関わらず、固定観念を振り回すような言動ばかりが目立つのはどうしたことか。

はてなブックマークのコメントなんかでも、皮肉や罵倒を目にする率は高い。中には参照元の内容が本当に酷い場合もある。けれども、色々な見方があってしかるべきだろうというような話題にまで、矢鱈と殺伐としたコメントが並んでいたりする。或いは、コメントが酷く自虐的だったり自省的だったりする場合もある。多様な視座のサンプルがあるというのに、自分の価値観に縛られ視野の広がる様子がない。完全に情報の多さが裏目に出ている。情報が多いということは、自分と同じ価値観だけを拾い集めることもできるということだ。これはむしろ視野を狭める。

そうやって、ネット情報の多様性を脳内フィルターで濾過し、自分の価値観の中に閉じ篭る。合わない意見を見付けると、ほとんど脊髄反射的に攻撃する。或いは、オレはダメなんだという負の自意識を大事に大事に育てる。これらはベクトルが逆なだけで、大量の情報から選択的に自らの固定観念を強化しているという意味で、まったく同じ性質の表裏である。インターネットを使うことで、かえって思考を硬直させる。これでは、いくら自由な情報空間を維持したところで、有意義どころか有害である。老害だなんだと他人の硬直的態度を非難している場合ではない。

インターネットを本当に活用したいなら、まず自分の脳内フィルターを捨てるべきだろう。

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インターネットが産声を上げた時、それを利用していた層は
・パソコンが構築、管理でき
・ネットワークに接続でき
・HTML、サーバ等の知識に長け
・キータイプが難なくできる
人々ばかりでした。
言うなれば"職人"と呼ばれる技術者やコンピュータを趣味で扱う特殊な人々でした。
彼等が目指したのは情報の共有化とデータベースとしてのストレージであり、コミュニケーションはそれに付随するおまけでしかなかったような気がします。

あの時代は、インターネットがツールである事を知る人間しかいなかったように思います。
懐古主義のようですが。

今では、インターネットはこの世界にリンクするコミュニティ…いえ、ソサエティを形成しているように思われます。
こうやってブログのコメントで言う事ではありませんが、ブログの出現が大きく世代を変えたと思っています。

> tamanegiさん
ブログの出現は、仰る通りネットワークに参加する人たちの顔ぶれを一気に変えてしまいましたね。パソコン通信からインターネットになったときも、パソ通時代からの住人はその客層の変化に違和感を抱いたようですが、ブログとSNSの台頭はその時以上の客質の多様化を齎したのかもしれません。いまや、集合知としてのインターネットというのは、多くのライトユーザーの興味からいえば、目的の一部として生き残っているにすぎないようにも見えます。それがインターネットの発展にプラスになるのかマイナスになるのかは、今後の展開を観察するしかありませんね。

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