常識はもともと「一般的な知識」のことではない

この人のいうのは常識というのとは少し違うと思う。

常識が分からない

まあ、周知の知識という意味で使うこともなくはない。けれども、もともとはcommon senseの訳語だから、漠然と共通の感覚、くらいのニュアンスで捉えた方がいい。たとえば、順番待ちの列に割り込まないとか、お年寄りには席を譲るとか、赤ちゃんを窓から捨てないとか、給食費は払うとか、幼女を攫ってイタズラしないとか、恋人の家で別の女とセックスしないとか、そういうのが常識と呼ばれるもので、振込みの仕方を知らないとか、電車の乗り方を知らないとか、株の買い方を知らないとかいうのはちょっと違う。それは無知であって非常識ではない。

そして、無知というのは非常識と違って、それほど気にしなくていい。必要な知識は覚えるものだし、不要な知識だって興味があれば覚える。だいたいどんなに博識な人でも知らないことの方が多いはずだ。常識さえあれば無知はいくらでもカバーできる。無知の知という言葉もある。自分が無知であると自覚することは悪いことじゃない。むしろ、それが基本といっていい。実際問題、切符の買い方が分からなくても、人に訊いて買えれば問題はない。焼香の仕方を知らないなら、実践の前に人に訊くかググるかすればいい。怠っても精々恥をかくくらいのものだ。

それに比べると、非常識の方は少々困る。これは治すのが難しい。というのも、漠然と共有していそうだ、というだけで確固とした常識なんてものはないからだ。それこそ、人を殺しちゃいけない、という常識がみんなに通用するかどうかさえ保証の限りではない。たとえば、法律をはじめとした公共のルールは常識に近い性質を持つかもしれない。それでも精々多数決の結果であって、まったくルール通りの常識感覚を持った人なんていないだろうと思う。だから、常識を持て、というのは実は、空気読め、というのに近い。近いというか、ほとんどそのものである。

だから常識が時代や場所によって異なるのは自明だ。common senseなんだから当然集団の中にしか生まれない。集団の構成員が変われば常識も変わる。常識的にガキは殴って育てるという社会もあれば、それは体罰ですという社会もある。常識的に12歳が性的対象になる社会もあれば、それは犯罪ですという社会もある。だから、常識を身に付けるということは、自分が属する様々な集団の中で、しっかり各集団の空気を読むということだ。つまりネットと一緒だ。もちろん、あらゆる集団で常識人たることが、何よりも優先するかといえば必ずしもそうは思わない。

ただ、博識な非常識人よりは無知な常識人の方が生きやすいだろうとは思う。

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