ブログが何の役に立っているかは誰にも分からない

川田亜子アナウンサーの自殺とは直接には関係のない話である。

結局blogなんて、クソの役にも立たなかったわけだ。

この結論を導き出すには、ふたつの前提がいる。ひとつめは、川田アナは個人的な何かを個人的な誰かに届けたくてブログを書いていたという前提。次に、個人的な何かを個人的な誰かに届けられるのがメディアの存在意義であるという前提。さて、この前提にはどの程度の信憑性、或いは一般性があるんだろう。ぼくに確信できるほどの材料はない。ただ、これはかなり恣意的な前提なんじゃないかとは思う。ひとつめの前提については川田アナの本意を確認できない以上、肯定も否定もできない。ただ、ふたつめのそれはあまり一般的な考え方ではないように思う。

マスに開かれたメディアを何に使おうと使う人間の勝手ではある。使えるものは何にでも使えばいい。脚本化がテレビドラマを利用して密かに恋人にプロポーズするようなことがあっても、ぼくは一向に構わないと思う。さて、恋人は脚本家のことを本当に愛している。けれども、脚本家が大衆に向けて作り出すドラマにはまるで興味がなかった。そして、脚本家も今度の月曜のドラマでメッセージを送るから、なんて野暮な前振りはしなかった。当然のように、愛のメッセージは恋人に届かなかった。結局テレビなんて、クソの役にも立たなかったわけだ。

もちろん、そういう考え方があってもいい。それは個人的な価値観だからだ。たとえば、ぼくの部屋にはテレビがないし、それを不便だとも不幸だとも思わない。ただ、ぼくにとってテレビがクソの役にも立たないからといって、他の誰にとってもそうだとは限らない。当たり前のことだ。テレビに命を救われたという人もいるだろうし、テレビのお陰で生きる目標を見付けられたという人もいるだろう。マスメディアというのはそういうものである。伝達される相手が多ければ多いほど、発信者の意図を離れて情報は一人歩きを始める。それこそがマスの力である。

この点、ブログは少々微妙な位置にある。基本的にはマスに開かれたメディアである。そう思ってブログを不特定多数への情報発信に使おうというのは、至極一般的なブログへの態度だと思う。一方でブログは個人の意思が反映されやすく、かつ書き手と読み手が個対個の双方向性を持ち得る。その意味で、従来のマスメディアが持ち得なかった限定的なコミュニケーションをも可能にしている。お陰で、ブログは個人的なメディア、という印象が拭いがたくある。これが先のエントリーのような無力感を生むんだろう。ただし、それは決して一般論にはなり得ない。

公開されたブログが無駄かどうかは、もうブログの書き手にも決められないのである。

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