今、ぼくは何故ブログを書くのか?

文章を書かなくなると、どうも頭のある部分を使わなくなる。

そう思い、再開することにした。そもそも自分の今を記録しておくために始めたブログだ。そのとき考えたことはそのときに記録しておかないと将来思い出すことはまずない。別に思い出す必要もないから思い出さないだけのことではある。それでも、書き留めることで何かが自分の中に定着するという気はする。それに、同じように何かを見聞きしても書きたいと思えば自ずと集中力が違ってくる。漫然と日々を生き繋いでいるよりは、幾分アンテナが伸びる。これはなかなかに心地良い。仕事以外でも脳に適度な刺激を与えてやる。これもひとつの快楽だろう。要するに娯楽である。

日々瑣末なことを考えて生きる。案外に楽しいことだと思う。大抵の娯楽は能動性の高いものほど娯楽性も高い。その意味では何かを考えるというのは最良の娯楽かもしれない。例えば、もっとも手軽な娯楽のひとつはテレビだろう。とにかくスイッチを入れておけば、勝手に多様な(というほどに多様ではないけれど)娯楽を提供してくれる。まあ、どの番組を見るか、という程度の能動性は担保されているものの、とにかく部屋にいる間はなんとなく点けっぱなしという人も多いはずだ。そういう見方をしている限り、テレビは退屈である。そして手軽や便利は能動性を損なう要素でもある。

テレビに比べると映画やライブなんかは少し能動性が高い。足を運ぶという意味でもそうだけれど、そもそも興味の向け方がテレビとは違っている。惰性では手に入らない種類の娯楽である。まず、興味を持つまでにある種の積極性が必要だ。同じように読書というのも、用意された娯楽でありながら、選ぶ、読む、という過程で結構な能動性を必要とする。内容によっては、その理解にさえ高度な能動性が求められるだろう。こうした能動性は提供される娯楽の種類によって一方的に規定されるものではないけれど、デフォルトで要求される能動性の度合いにはやはり差がある。

もちろん、娯楽というのは受け手次第のものだ。テレビだってモチベーション次第ではもの凄く楽しんで見られるかもしれない。ただし、提供側が想定した以上の楽しみを見い出すには、享受側によりクリエイティブな能動性が必要になる。これは不可解なことを不思議に思うより、当たり前の物事を疑う方が難しいというのと似ている。平たくいえば、発想を転換するとか、視点を変えるとかいうやつである。これが日常的にできる人は、きっと毎日が発見の連続だろうし、生きることに退屈するようなこともないだろう。休みなくアンテナ3本立てっぱなしは辛いだろうけれど、ずっと圏外ではつまらない。

だから、もう一度ブログを書き始めることにした。…ブログを書く理由をブログに書く。なんともつまらないことをしてしまったような気もするけれど、まあいい。瑣末なことを考える、というテーマからいっても本道だ。なぜ自分はブログを書くのか。とてもトリビアルだけれど、そこそこに興味深い。これだけ一般にブログが普及したということは、それだけの人が書く理由を持っているということだろう。そして、その理由はいつも一定ではないかもしれない。書き始めたときの動機と、今、書いている理由が全然違っている。そんなことはきっと珍しくないはずだ。

今、あなたがブログを書く理由は何だろう?

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