書きたい欲求だけがあって書くべきことがない

ほとんどブログを書かなくなった。

理由はあるといえば、ある。直接的には結婚と転居だ。これで自室と通勤電車の隙間時間を失った。自然、ひとり物思いに耽ることが少なくなった。本を読み倒したり、ネットに入り浸ったり、映画漬けになったりすることもなくなって、インプットの質はかなり変わった。これは文字通り変わったという話であって、質や量の低下を嘆いているわけではない。失ったものが占めていた場所には、いま別のものが居座っている。ただ、インプットが蓄積される感覚はかなり薄れている。会話や行動の中で逐次アウトプットされることが多くなったせいかもしれない。いずれにしても、結婚と転居は確かに可処分時間の使い方を変えてしまった。

けれどもそれは、ぼくがブログを書かなくなった、あくまで消極的な理由でしかない。実のところ、ぼくにはそもそもブログを書く積極的な理由はひとつしかなかった。それは「作文の偏愛」とでもいうべきもので、完成も正解もない「文章」の世界でただひとり遊ぶことそのものに快楽を求めていたのである。ゲーマーの第一の目的がエンディングを見ることではないように、ミステリ読者の第一の目的が犯人の名前を知ることではないように、ぼくがブログを書く第一の目的はブログを公開したり、それによって何かを主張することではなかった。意味なんてなくてもいい。ただ気持ち好く書き、その快楽の成果を見せびらかしたかった。

それならずっと書き続ければいい。自分でもそう思う。が、問題はあった。書くべきことがないのである。誰かに向かって主張したいことなんてなにもなかった。廃人演説家、鳥肌実はいった。「訴えたいことがないんです」…まさに!ほぼ毎日ブログを書いていた2005年から2009年までの 4年弱、時間があり余っていたあの頃でさえ、ぼくには書きたいことがひとつもなかった。書くことは快楽でも、何を書くべきか考えるのは苦痛だった。それでもひとりの時間だけは持て余すほどにあった。だから、考えた。とっかかりさえ掴めれば、妄想はいくらでもできる。主張はすべて後付けだった。論旨など二の次で本末は端から転倒していた。

いまでも書く快楽への未練はある。だからこうして、時折、思い出したようにキーを叩いている。やっぱり愉しい。あり余っていたひとりの時間は「捻り出さなきゃ得られないもの」に変わった。けれども、ぼくは「考える苦痛」のために時間を捻り出す努力をしてこなかった。なぜなら書く快楽なしでやっていける程度には、いまの生活に満足しているからだ。これが、ぼくがブログを書かなくなった、より本質的な理由だ。継続は力かもしれない。けれども、その力が人生を面白くするとは限らない。時間は有限でも、その使い方は無限に自由だ。明日死ぬこともできる。いまの自分の姿は、結局そうするしかなかった選択の結果だろう。

いまの自分こそが最適解…最近はそんなことを思っている。


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