否定的思考を批判することの難しさ

まず前提として、ネガティブ思考自体は決して悪者ではない。

他者を否定的に見たり、自己を否定的に見たりする。それはときに思考を相対化したり視点に幅を持たせたりするのに有効なやり方だ。それを承知の上で、ぼくはネガティブなものの見方に意見することがままある。このブログでも時折そういうエントリーを書いている。それは、ネガティブ思考が有効な範囲を超えて自縄自縛に陥っている、そう感じたときだ。だから、ぼくとしては別の考え方を提案しているだけで、ネガの表出そのものを非難しようなんて意図はない。けれども、これは否定の否定に陥りやすい。そして、否定の否定は自己矛盾の謗りを免れない。

話は簡単だ。「バカっていう奴がバカ」の無限ループと同じである。それをいった瞬間に、自分自身がいわれる側に回る。少し前に書いた「他人の弱さを不快に感じる人の弱さ」というエントリのはてブにも、ほとんどそのままのコメントがあった。この場合は、ぼく自身がエントリーに書いたような「弱さ」を不快に感じたんだろうと思われてしまった。そして、そんな否定的な態度に不快を感じた人が少なからずいたようだ。いい訳めくけれど、ぼくは別に引用した増田氏に不快感を覚えたわけではない。辛そうに見えたから、見方を変える方法を考えたつもりだった。

最近のぼくは、「よりよく生きるための思考」みたいなものに興味がいっている。それは同時に「自分を苦しめる思考をいかに減らすか」という問題でもある。そして、ネット上にそうしたことに関わるエントリーを見付けると、自分なりの思考を進めるための材料にさせてもらっている。基本的に個別の事象や個人を非難する意図はなく、一般論として展開可能な議論を志向している。それが上手く伝わらないのは書き方が拙いせいだ。だから、もしこのブログのエントリーを読んで気分を悪くしたり、自分が非難されていると感じた人がいたなら申し訳ないと思う。

自戒を込めて思うのは、否定や非難と批判は違うということだ。否定の否定は矛盾だけれど、否定の批判は矛盾ではない。それは「本当にそうなの?」という疑義を含意した批評といい換えてもいい。懐疑主義に近いものといえるかもしれない。あらゆるものに代替案を用意し得る。そう思いたい。「これはこうこうだからダメだ」を越える方法を見い出したい。ある種の正義やある種の正論が、別の何かをスポイルしてしまうことに極力敏感でいたい。これが正しいという話ではない。単に、今の自分には合っている。だから、その思いに従って書く。それしかできない。

それを公開する意義は、他者の批判に触れて自分の考えを点検できる点にある。

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