周回遅れでもいい、繰り返される話題に思考停止するな

たとえばはてな界隈でも、同じ話が何度もホッテントリ(人気エントリー)入りする。

ある種のノウハウについて、或いは、ある種の社会問題や心理や性について。それだけ話題として需要が高く、同時代性に縛られないということだろう。ノウハウについてはその都度新しい読者に伝播するのだから、何度繰り返されてもいい。知っている人にとっても既に知っていることが分かりやすいからスルーすれば済む。けれども「貧困」だとか「才能」だとか「モテ」だとか「コミュニケーション」だとかいった話題になると、なかなかそうもいかない。新しい見解でもあるのかと読んでは、「またか」「何度めだ」という気持ちになる。クダラナイものを読まされたと思ってしまう。

書き手は、それを「新しい視点」とか「自分なりの発見」とか思って書いていたりする。一方、同じ話題を追ってきた先人にとってそれは、あまりに周回遅れで陳腐な見解にすぎない。で、「何度めだ」ということになる。得意げな上目線にもうんざりして、ブックマークコメントに「何度めだ」とか書いてしまう。ぼくだって、そういう気持ちになることは少なからずある。けれども、そうした「発見」が何度も繰り返されるということは、その普遍的な話題において、いまだそういう「陳腐な見解」の存在を許すような言説が溢れ、それを覆すような見解が流布していないことを表している。

要するに、今さら「地球はまわっている」という事実を発見する人はいないけれど、「モテは内面だ」という発見をする人は後を絶たない、そういうことである。これは大抵の場合「一概にいえない」ことだったりする。けれども、「一概にいえない」というのは何もいっていないのと同じだ。そういいながらも、その話題を追っているということは、やっぱり何か新しい見解を期待してもいるんだろう。なら、「何度めだ」といって新参を腐すほどその問題に精通している自身こそが、新しい可能性について考えるべきなんだろうと思う。そして、新参を見付けたら同じ土俵に導いてやればいい。

そもそも人は過去の叡智を予め身につけて生まれてくるわけではない。九九を覚えたての現役小学2年生が「九九の前後を入れ替えても答えは同じだ」という発見を得意げに語ったからといって、「何度めだ」と腐すのは大人げない。「そうだね」と褒めて、先へ先へと興味を導いてやればいい。そうして、自分はさらに進んだ問題について考えてみればいい。いずれ自分がいるこの地点だって、先人にとっては周回遅れなのである。繰り返される話題に決定打を持たないなら考え続けることは、たぶん、無駄じゃない。考えたなら後進のためにそれをアウトプットするのも悪くはないだろう。

少なくとも、自分は思考停止しておきながら新参を腐すだけ、というよりはマシである。

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