一貫性のない人間の記録、或いは、娯楽としてのブログ

このブログのエントリー群は論理的不整合に満ちている。

それは、ぼく自身に論理的整合性、或いは、一貫性がないせいである。今日のぼくと明日のぼくはいうこともいいたいことも違っている。その変化は必ずしも成長を意味しない。なにしろ、ひとつの事柄について同時にまるで違った見解を持っているような場合さえある。このブログでも書いたことがあるかもしれないけれど、実のところぼくにはこれといって「主張したいこと」がない。大槻ケンヂの“人として軸がぶれている”に共感する程度には、首尾一貫していない自分に自覚的でもある。ただ文章を書くという娯楽があり、それなりに根強い自己顕示欲がある。それだけだ。

ブログなど書いているとそんな自分がよく見える。エントリーを書きながら想定していた結論がまったく変ってしまうなんてザラだし、書き終えることで考え方が更新されることだって少なくない。だから、気にしているのはせいぜいエントリー内の整合性くらいのものだし、それすら危うい。もちろん、書いた内容に執着はある。だた、その執着はリアルタイムの自分を代弁してはいない。読んだ人にカウンターを打たれて凹むこともあるけれど、それはたいてい自己顕示欲の亡霊が躍起になっているだけで、顔を真っ赤にして弁護するほどの自己をそのエントリーは持っていない。

一貫性がないということは、おそらく、非効率だということでもある。たとえば、ネットウヨクやネットサヨクと呼ばれるような人たちがいる。彼らにはまず「答え」がある。考えることは彼らの仕事では、たぶん、ない。考えるべきは「啓蒙」や「説得」の方法であって主張の内容ではない。つまり、ある種の主張を取り入れるということは思考経路を効率化することでもある。たとえばネットサヨクという方程式を選択した段階で、それ以外の可能性を除外して結論を導くことが可能になる。ぼくがノンポリ臭いのだとしたら、原因はそうした割り切りができないところにある。

特定の方程式を持たない、或いは、持てないぼくは、雑多なインプットに対してその都度非効率な思考を巡らせ、おぼろげながら今の自分が見えてくるとエントリーに起こしてみたりする。そこで過去の自分を参照することはほとんどない。このブログはそんな刹那的な思考の記録で埋まっている。最初からそれが目的で始めたわけではない。ただ、今のところ書き続けている理由はそんな辺りにある。だから、今年も軸はぶれ続けるだろうし、一貫性のないエントリーを量産するだろうと思う。それが娯楽としてブログを続けるためにぼくが暫定的に選んだスタンスだともいえる。

こうして見ると自分というのは案外に面白い娯楽である。

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