あらゆる批判に予め勝つためのエントリーの書き方

簡単にいえば「自分の真意を語らない」、或いは、そのように振る舞うことである。

ある主題について、「自分の意見」ではなく「ひとつの考え方」を提示する。そういうキャラクターとして自らを認知させる。つまり、書き手の思考は書かれたものよりも遥か高みにあって、カウンター意見をも織り込み済みでやっているのだ、というメタ視点キャラを確立するのである。これは、批判者にとってはやり難いことこの上ない。そういう手法そのものを批判することはある程度有効だろうけれど、書かれた内容について突っ込むことはほとんど「ネタにマジレス」に近い。或いは、釈迦の掌の上の孫悟空状態だろうか。これほど書き手に有利なやり方はそうないと思う。

これに近い手法でエキサイティングな極論を繰り出す人気サイトのひとつが「分裂勘違い君劇場」だろう。そもそもぼくには難しくてよく分からないことも多いわけだけれど、ある種のフレームワークを提示し、寄せられるコメントやトラックバックまで織り込む形でひとつのコンテンツにしてしまおうというのがあのサイトのやり方なんだと思う。あまりに的外れな突っ込みは別として、およそどういう人のどんなところを刺激して、その結果、どんなカウンターに遭うかまである程度想定して書かれている節がある。そして、提示される思考は必ずしも書き手の真意を意味しない。

つまりこれは、そもそも自ら議論の具となることを意図しない書き方なのである。本当にこれを意図的にやるのは結構骨が折れるだろうと思う。ただ、形式的には模倣しやすいとも思う。実際、「分裂勘違い君劇場」のフォロワーと思われるブログを時折見かける。この手法の書き手にとっての利点は、実は、本当に書き手の思考が遥か高みにあるのか、ただ思慮が浅いだけなのかの判別が難しい点にある。たとえ、物事の一面しか見えていなくて「あなたの考え方は一面的だ」と図星を指されても、「多面的な事柄の一面を語ったのだから当然だ」という態度を取ることすらできる。

偽装のポイントは、底の浅さを見破られないこと、だ。そのために書き手が取れる最良の戦術は、一度投下した火種については黙して語らないことである。そして、物事を「一面的にしか見られない」とか「思考の底が浅い」のは構わないけれど、「単純な事実誤認」をやらかすのはNGである。それこそただのバカだと思われる。一般に、ある程度専門的且つ高度な内容であれば多少の事実誤認があっても構わないと思う。そもそも突っ込める人は少ないだろうし、いたとしてもそのレベルにある人は「ネタにマジレス」の愚など犯さないだろう。つまり、重大な批判は表面化しない。

はっきりいってしまえば、普通の人は他人のブログをそこまで精読しない。だからこそ、この偽装は相当に有効なはずだ。もちろん、火種として面白いネタを書きあげる筆力なり話題選びの才はある程度必要だろう。ただ、特別インテリである必要はない。そして、上手くすれば、勝手に読者が偽装を手助けしてくれる。「書き手のキャラを理解してるオレかっこいい」というタイプの「違いがわかる読者」というのはいるものである。彼らは放っておいても批判者批判に精を出してくれる。そこまでいければ偽装は大成功といっていい。遥か高みで優越感に浸ることができるだろう。

もちろん、そんな文章を書いていて愉しいか、というのはまた別の話である。

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