読まれる記事にはやっぱりそれなりの文章技術が要る

ブログはネタが命だ、という点に疑問の余地はない。

読まれる記事を書くために、文章技術よりもはるかに有効なこと - 分裂勘違い君劇場

ただ、勘違いしてはいけない。「分裂勘違い君劇場」はそれなりの文章技術を背景にして書かれている。さらには、フォント弄りや箇条書きなどの視覚表現も含めて「伝わりやすさ」に相当な配慮がなされている。が、そうした副次的な要素を別にしても、fromdusktildawn氏の文章はかなり通りがいい。いわゆる文芸的な「味わいのある文章」や「独特の癖のある文章」ではない。ただ、言葉はよく選ばれているし、リズムも悪くないと思う。リンク先の冒頭部分を文字修飾や改行抜きで読んでみたけれど、やっぱり十分に読みやすい。修飾、改行抜きにしたものを少し引用してみる。

ブログ記事をより多くの方に読んでいただくために、小手先の文章テクニックや場当たり的なアクセス稼ぎテクニックなどよりもはるかに効果のあることがあると思います。それは、経営戦略の基本中の基本である、需給バランスに徹底的にこだわることです。すなわち、需要があるのに供給が不足している記事を書くのです。本来、「需要があるのに供給が不足している」というのは異常な状態です。なぜなら、みんなが読みたがっているのに、誰も書いていない記事を書けば、たくさんの読者を獲得できるのは明らかだから…(後略)

この程度の文章を書くというのは、案外、誰にでもできることではない。このレベルの文章を保ちつつ誰かにとって面白いエントリーを書いているから、「分裂勘違い君劇場」はそれなりに広く読まれているのである。もちろん、ネタが秀逸なら箇条書きだけでも読ませることはできる。ただ、それはエントリー単体での話だ。文章を蔑ろにできるほど明快で強いネタというのは、およそ「誰が書いたか」に関係なく読まれる。いい換えれば、読者は「ネタ」につくのであって「書き手」につくのではない。もちろん、箇条書きが「芸」になるほど芸達者な書き手なら話は別だけれど。

そもそも「読まれる記事」をより広範に捉えるなら文章が書ける必要すらない。2chコピペやニュース系なんかはその一例だろう。あれは「書き手」というより「編集者」としてのセンスが問われているのだから、文章技術なんて端から問題にならない。リンク先の話はあくまでも自分でネタを繰って、自分で文章にすることを前提としている。しかも、目指しているのは「読まれる記事」である。だとすれば、やっぱり文章技術は蔑ろにできない。何も、気の利いたいい回しや秀逸な比喩表現ばかりが文章技術なわけではない。少なくとも文章で読者を逃がさない技術というのはある。

たとえば、「分裂勘違い君劇場」のように「理解」が必要なブログで、文章技術が低いというのは致命的だ。いくらいいことが書いてあっても文意不明瞭では読む気がしない。一般向けと称する学術書なんかにも、この手の失敗例は少なくないように思う。「分裂勘違い君劇場」はリンク先に書かれているような戦略的なエントリーが、そこそこ通りの良い文章でコンスタントに書かれているから読まれるのである。件の方法論は、そこそこの文章をすでに書ける人が「読まれる記事を書くため」に参考にすべきものであって、本当に文章技術が低い人がやっても効果は、たぶん薄い。

文章をただストレスなく読ませるにも、それなりの文章技術は必要なのである。

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