ブログ閉鎖宣言という遺書

存在することを止める、そう表明することで何かを訴える。

はてなに絶望しました。もうブログやめます。 - Paper Storm!!!
ブログ閉鎖を宣言しても、はてブが変わるとは思えないし、絶望だけが孤独という名の残滓を創出するだけなのだと思う。タイトルなんてただの飾りだし、私はid:shiroannさんと似ているところがあると思ったので長文タイトルでエントリを起こしてみる - 煩悩是道場

これは、生き辛さに絶望して遺書を書く行為に似ている。遺書を書く。それは、生きているうちには伝えらえなかった言葉を、死という究極の選択と抱き合わせることで伝えようとする行為だと思う。そもそも伝えたいことのない人は、たぶん、遺書を残さない。遺書を残すのは、おおよそ、無念の故だろう。生きて伝えようと足掻くことに絶望し、死して言葉を投げかけることを選ぶ。けれども、無念が伝わったか否かを確認する術はなく、真意を説明する機会は永遠に失われる。哀しい選択というよりない。死を願ったことのないぼくに、その絶望は想像さえできない。

ブログを閉鎖する。そのブログの未来に何も期待しないのなら、宣言なんかする必要はない。勝手に止めればいい。それでもいわずにいられないのは、やっぱりそこに存在できるならしたかったという思いがあるからだろう。未練があるからだろう。そして、訴えたいことがあるからだろう。残念ながら、ふたつめのリンク先にもある通り、閉鎖宣言くらいではたぶん何も変わりはしない。ホットエントリー入りして普段より少しはたくさんの人にその訴えは読まれるかもしれない。けれども、それだけである。閉鎖の決意などは、他人には瑣末なできごとにすぎない。

影響力という意味では、ブログ閉鎖の表明などは遺書よりも頼りないものだ。遺書はもしかすると、周囲の人間に多少の反省を促すかもしれない。死んでしまっては、それも意味を持たないけれど、その絶望故に少しくらいは影響力を持つ可能性がある。それでも、極めて限定的なものにすぎない。その人がただ生きているだけでも、遺書なんかよりずっと世界に影響を与えることになるだろう。翻って、他人のブログの閉鎖がどれほど真摯に受け止められ得るか。その可能性はほとんど絶望的だ。閉鎖と引き換えにした、最後の期待さえ裏切られることになるだろう。

ただし、ブログ主は死んだわけではない。書いた後、二度と見に来ないという可能性は、たぶん極めて低い。この閉鎖宣言がはてな内にどんな影響を及ぼし得るのか。それを確かめたいという感情は抑えがたいんじゃないだろうか。死んだ人間は、遺書のその後を知ることはできない。ブログ主は違う。はてなの心無い罵詈雑言の投げ付け合いに絶望しながらも、このエントリーに付いたはてブコメントを読まずにはいられないんじゃないか。ブログに何かを望んだからこそ、閉鎖宣言をしないではいられなかったのであれば。宣言に意味はないといい切れない限りは。

そして、影響を見届けたいという欲求は、ブログからの決別とは相容れない感情だろう。

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