ネットは議論よりブレストに向いている

前提が共有されない議論は議論として成り立たない。

発端 >> ケーキ - 福耳コラム
反応 >> 人は「全体」のために生きているのではない - sjs7のブログ
反応 >> id:fuku33が何を消し去ろうとしたか - NWatch ver.X

発端となるエントリーでは教員側と生徒側との間に前提が欠如している様子が描かれる。トリアージというのは「限られた資源下でひとりでも多くの人命を救うこと」を前提とした話だ。「ひとりでも多くの人命を救う」ことが正しいかどうかを論じているわけではない。ましてや、トリアージによる判定が人として正しいかどうかを論じているわけでは全然ない。つまりfuku33はその前提ありきで考えたとき、最適解としてトリアージという方法があるんですよ、という話をしただけのことである。それがうまく通じなかった。だからまあ、愚痴を書いたんだろう。

それに対する反応例のひとつめは、fuku33と女生徒の間にあった前提の欠如をそのまま引き継いだ例だ。つまりトリアージが持つ「ひとりでも多くの人命を救う」という前提自体を疑えという話である。そして「すべての命を救う、それ以外はすべて間違いだ」という前提を新たに提示し、だから自分は「正しくない」と自覚しつつ自分の大切な人だけを助けるんだと宣言している。本人が文中で「てめぇの『正しさ』を押し付けるんじゃねぇ!」と書きながら、自覚的に「正しくない」道を選ぶことが「正しい」といっているように見えるのはちょっとした皮肉である。

そして、反応例のふたつめは、fuku33のブログ運営スタンスに対する苦言である。具体的には、批判に晒されてエントリを改竄するとは卑怯也、という糾弾である。削除されたのはfuku33の印象を悪くするだろうアケスケな愚痴表現にあたる部分で、実際のところ文意自体はさほど変わっていない。「id:fuku33が何を消し去ろうとしたか」という含みのあるタイトルから、議論に関わる何かを改竄したのかと慌てて読んでみたのだけれど、本筋とはまったく無関係だった。こちらの議論のテーマは「ブログ運営はどうあるべきか」というあたりになるんだろう。

あんたらみんなズレてんぜ、ということがいいたいわけじゃない。こういう前提の欠けた自由討論は、思ってもみなかった発想を得られるという意味で案外面白い。仕事でいえばブレーンストーミングに近い感覚だ。本件のようにそもそも議論を意図していないところに議論のようなものが湧いて、結局議論にならず錯綜するというのもネットの面白いところだろう。ただ、ネットというのは議論するには不向きなメディアなんだろうな、とも思う。参加者を限定しない集団で、議論の前提を共有するのは相当に難しい。それに悪感情を吐露しやすいメディアでもある。

いずれ思索の拡大にはもってこいなんだけれど、暴言が多いのはどうにかならないものかなぁ…。

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