ネットはオタクの遊び場で終わってしまうのか?

「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠

いまどき「ネットが面白い」なんて人はまったくどうかしている。

まあ、半分くらいは好い意味で、だ。なぜなら彼らは、インターネットという社会インフラを「趣味」にしてしまった人たちだからだ。いってみれば、鉄オタにとっての鉄道みたいなものだろうか。一般人にとってのネットや鉄道は、もはや面白いとか面白くないとかいう興味の対象ではない。環境に近いものになってしまった。

もちろん、「ネットがつまらないのは自己責任!」というのも正論だと思う。そして、「ネット」の部分はあらゆるものに置き換え可能だ。ぼくが鉄道を愉しめないのは、ぼくのせいに違いない。たしかにぼくは、鉄道を愉しむための努力をしてこなかった。ネットも同じなんだとすれば、それはネットが高度に訓練されたネットオタクでなければ愉しめない、ただのありふれた風景になってしまったということだろう。別に、それが悪いことだとは思わない。

とはいえ、15年前のインターネットは面白かった。

自宅のパソコンが世界と繋がっていて、自由に情報を受信したり発信したりすることができる。いまとなっては当たり前の、そんな枠組みそのものに萌えることができた。あの頃のネットにいまより素晴らしい何かがあったわけではない。それでも、稚拙なアングラサイトから割れ物や無修整のオカズをダウンロードするだけで、上から下までロマンティックが止まらなかった。好きな作家や映画やアイドルの情報をせっせと蒐集し、メモ帳で書いた HTML を ISP から割り当てられたサーバスペースに FTP でアップし、趣味を同じくする個人サイトのチャットルームで気の合うボンクラたちと交流することは、とても新鮮でエキサイティングな体験だった。けれども、あの頃のネットは面白かったなんていうのは、半分以上は、おっさんの郷愁だろう。

要するに、テレビがいちばん面白かったのは街頭でモノクロームの力道山がシャープ兄弟と闘った時代であり、家庭用ビデオゲームがいちばん面白かったのは 8bit マシンでドット絵のマリオがクッパと闘った時代であり、インターネットがいちばん面白かったのはテレホーダイで PC の前のオタクたちが回線を奪い合った前世紀末だ、という話である。ぼくたちはいつだって、死ぬまでの暇つぶしに困窮した不感症気味のネオフィリアだ。iPhone をはじめて手にしたときの熱狂はもう帰ってこない。あのときは、ぬるぬる動くタッチデバイスを触っているだけで、ひと晩中エレクトし続けることができた。

それは要するに、大衆がイノベーションに触れる昂奮だった。

はじめて村に鉄道がやってきたとき、それを見たり乗ったりすることは多くの人にとって娯楽だったろう。が、いまはそうではない。特殊なアンテナをギンギンに尖らせた、一部の好事家たちだけがそれを愉しむことを許されている。彼らの極めてアクティブな嗜好は、その細分化の度合いにも現れている。乗り鉄だの撮り鉄だのいうアレだ。彼らとてただ漫然と乗る毎日の通勤電車が愉しいわけではないはずだ。「テレビが面白い」という人も、「ゲームが面白い」という人も同じだ。彼らは、極めて能動的にそれらを愉しんでいる。だから、面白い。そこはオタクだけが生き残れる特別な場所だ。

多くの「普通の人々」は与えられたコンテンツがたまたま面白かったときだけ、パッシブにその快楽を享受する。「あまちゃん」が好きな人は別にテレビが趣味なわけではないし、「パズドラ」が好きな人だってそうだろう。テレビやゲームを趣味にしている人たちは、きっとそれらをもっと別の目で見て愉しんでいる。それは、同じように与えられたものの中から、より多くの愉しみを引き出しているということでもある。(あとで虚しくならないタイプの)自家発電である。こうした発電能力の高い人たちを、ぼくは心底羨ましく思う。

それでも、インターネットは「愉しむ余地」がたくさん残された場所だと思う。テレビやゲームとは比ぶべくもない。にもかかわらずインターネットがつまらないのは、よほどアンテナを研ぎ澄まさない限り、自分に合った愉しみを見つけ出すことが困難だからではないか。少し掘ったくらいでは、ノイズの波にのまれて溺れてしまう。高度に発達した宣伝やライフハックやネット芸人たちが表舞台を占拠し、場末にはイチゲンさんにはキツすぎるコールタールのようなコミュニティが山中の糞壺のごとく口を開けているばかり。さあ、自由に愉しめ、なんていわれてどうにかできる人は少数派に違いない。愉しむまでのハードルが高すぎる。

そんな中、「お金」や「承認」といった戦利品に囲まれたごく少数の猛者たちだけが、高みからネットの素晴らしさを語ったり、爽やかにマッチョ理論を展開したりする。けれども、その成功体験は、残念ながらその他の多くの成功体験がそうであるように、再現性の極めて低い小さな奇跡のひとつにすぎない。「インターネットで多くの人に向けて嬉々として何かを発信するような人」のいうインターネットの素晴らしさが一般的なわけはない。そういうぼく自身、ただただ俺得でしかない文章を書き殴ってはこんな辺境にアップしてひとり悦に入るという、いかにも酔狂なブログフェチだ。普通の人に「ブログ始めなよ、面白いよ!」なんて勧める気にはとてもなれない。いずれ、愉しいインターネットの案内人としては偏りすぎだろう。

では、と別の案内人を探してみる。

天下の Google 先生は神のごとく無愛想にすぎるし、Facebook や Twitter は属人性が強すぎて世界を広げるには向かない。リニューアルで色々あったはてなも一時の混乱をすぎてみると、安定の村民向けアルゴリズムに落ち着いたらしく見える。面白がるに十分な資質を備えてはいるけれど、それは情報やユーザーの偏りを前提とした面白さでしかない。

最近だとキュレーション系 CGM は期待してもいいように思えたけれど、あっという間に一部の猛者たちの玩具、というか漁場になってしまった。いまや、タイトルに NAVER と入っているだけで、クリックの手がとまってしまう。Gunosy 的なものも、いまのところ「目立つものはネットのどこにいても目立ち、見つけにくいものはどこにいっても見つけにくい」という原則から抜け出せていないように見える。まあ、解析型のキュレーションサービスはまだこれからの分野なのかもしれない。

いずれ、ネットを大衆の手に取り戻すには、ノイズの海をまっぷたつに断ち割って自分だけの道を示してくれる、モーゼのごときグルが必要に思える。いまは、(自分にとっての)あからさまなノイズを排除するために支払わされるコストが高すぎる。もちろん、娯楽に「適度な」能動性は必須だと、ぼくは思っている。ただ、「能動的に愉しめる場所」を見つけるくらいは、もう少しスマートにできてもいいんじゃないか。いまのネットなら、場所自体はすでに用意されている可能性が高い。ネットは広大だ。

ただ、いまはまだ少し「目立つためのノウハウ」に支配されすぎている。

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