糞を拾って人に投げつけるのは、もうやめようと思う

ネットは広大で、そして、ゴミだらけだ。

ぼくもこうして、多くの人にとってのゴミを生産している。ネットは広大で、そして、寛容だ。そんな夢の島から、宝物を見つけ出すのは難しい。ぼくはズボラな人間だから、自分で探し歩くのは苦手だ。だから、はてなブックマークなんかを眺めている。もちろん、はてブの人たちはぼくではない。当然、人気エントリーも宝物ばかりというわけにはいかない。やっぱりほとんどはゴミで、たまに面白い玩具が混じっていたりする程度だ。拾ってみたらゴミだった、ということも少なくない。それでも、ほどよく楽しんできた。どうせ、宝物ばかりたくさんあっても、すべてを味わっている暇はないのだから、ちょうどいいともいえた。それが最近、宝物かな、と思って伸ばした手にべったりとうんこがついている、そういうことが増えた。まあ、ぼくが好みに煩くなっただけ、ということはあるかもしれない。それにしても、こんな一等地になんでうんこが、と思うことしばしばである。

炎上の技術も極まって、タイトル詐欺などあたりまえ、3度のセックスより PV が好き!…なんて締まりのない肛門がやたらとスポットライトの下に躍り出てくる。いくらなんでも開発されすぎだろう。みんなの目に止まるためならハチ公前で家畜人ヤプーごっこだって厭わない。そんな気概には敬意すら覚えるけれど、過剰な人生のダンピング合戦がせいぜい2、3日の話題を提供するにとどまり、人の人生を賭けた一発ギャグすら半世紀以上も前に書かれたSM小説よりつまらないとなれば、そんなしょーもない無芸の素人を眺めて野次るような毎日に、いったいどんな人生の旨みがあるというのか。いや、ない!ないとわかっていて、そんな糞たちをスポットライトで照らす手伝いをしたり人に投げつけたりしてきた。ぼくは人の手にうんこを塗るだけの簡単なお仕事に従事する最底辺の奴隷労働者だった。つまらないという点においては社畜どころかノマド以下だったと反省している。

自由にゴミやうんこを投下できる広大なネットは、ぼくのような人間にとっては好い塩梅のぬるま湯だ。このままぬるぬると玉石を混淆したまま、無限に膨張し続けて欲しい。ただ、みんなと分かち合いたいと思えるような素敵な宝物をうっちゃって、せいぜい「臭せぇ」とツッコむくらいしか価値のないうんこばかり投げ合っているようでは、そこいらじゅうが臭くなってかなわない。ゴミはゴミらしくネットの路傍に、糞は糞らしく便所の向こう側に、やんわりと存在を許されていれば十分だ。路傍のゴミを拾ったり、下水の糞尿を愛でたりする自由はあり続けて欲しいけれど、手に付いたうんこをはてブで拭いたり、Twitter で人に投げつけたりするのは、もうやめだ。肥やしにならないどころか、妙な病気をうつしかねない。もちろん、ぼくにとっての宝物が誰かにとってうんこである可能性はある。それでも、自分でうんこだと思っているものを投げつけるよりはマシだろう。

─── うんこ拡散防止3ヶ条

第1条 : タイトル詐欺に遭っても鬱憤晴らしにブクマ・拡散するべからず
第2条 : ツッコミ待ちの浅薄な煽りや釣りにツッコミを入れるべからず
第3条 : 愛すべきバカとだたのバカと迷惑なバカを混同するべからず

これからは教会の塔の巣の中にキラキラ光るものだけを集めて生きていこうと思う。

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