ネットで人間嫌いになった人こそ Twitter をやるべき

いうまでもないことだけれど、この世にそうそう一面的な人間はいない。

ブログやSNS的なもの、或いは、はてなみたいなサービスは、比較的「構えた」発言が多い。特にブログはその傾向が強いかもしれない。はてなブックマークなんかも割と自分の主張を意識した発言が目立つように思う。もちろんブログだって“しょこたんブログ”みたいな使い方をする人はいる。けれども、それが大多数ということはない。そして、考えた発言は素がでにくい。素、というのは何も「ざっくばらん」みたいな、その人の特定の状態を表す言葉ではない。そんなものは素ではない、とぼくは思う。ざっくばらんなときもあれば狷介になることもある。それが自然だろう。

要するに、「素を知る」というのは「多面性に触れる」というのに近い。ブログやはてブなんかで展開される主張は、大抵の場合その人の「上澄み」でしかない。「キャラ作り」の結果といってもいい。目立つ人ほどその傾向は顕著だ。かなり極端な「一面性」を意識的無意識的に関わらず、演出しているケースが多い。そうした主張にばかり触れていると、面白いときは面白いけれども、酷く心がささくれたりもする。極端な主張に辟易してそんな人間が厭になる。標的になって憎悪が湧いてくる。そういう例は割にあると思う。しかも、厭なものほど目につきやすかったりもする。

もちろん、ネットの世を儚んで「残念だ」と諦めるのも、傷付き疲れて退場するのも個人の自由である。心の健康を蝕んでまで固執するものではない。むしろ、離れた方がいいこともあろう。けれども、まだ未練があるなら Twitter を眺めてみるという手もある。別に自分が積極的に発言する必要はない。心にひっかかる人を適当にフォローして、それを片手間に眺めるだけでいい。ここでも自分のキャラを堅持している人はいる。が、「縛り」を解いて発言している人も多い。「主張以前」の発言が拾える。そして、整理される前のつぶやきは、少なからず「多面性」を残している。

すると、大抵の人は「普通だ」ということになる。決して没個性的だという意味ではない。個性というのはそれこそ「上澄み」の話だろう。あの人もこの人もブログやはてブで見せるだけではない色々な側面を持っている。それが普通なのである。だから、大好きな誰かに極端な幻想を抱いているなら Twitter はやめた方がいいかもしれない。心酔している極右のあの人が Twitter ではユルユルのアマちゃんかもしれない。あんなに才気走ったブログを書くあの人が、とんでもなく陳腐な発言を繰り返しているかもしれない。そんな素を見たくないなら Twitter はやめた方がいい。

ただ、みんなそれなりに普通だよね、ということを再確認するには悪くないツールだと思う。

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