何を書いても誰かに不利益をもたらす

何かを公に発信することは誰かの不利益になる可能性を常に孕んでいる。

ブログと本音のあいだ - Life is Really Short, Have Your Life!!
304 Not Modified: ブログに何を書かないか

個人的には自分のブログから「不快」まで取り除こうとは思わない。そもそもそんなことは不可能だろうとも思う。誰が何を不快に思うかなんて分からない。もちろん、「特定の誰かを不快にしてやろう」と意図して書くことは避けたい。そんな負の感情に満ちた文章は何よりも自分のためにならないからだ。ただし、他人にとってどうかまでは分からない。そんな陰鬱とした内容でさえ慰めとする人がいないとは限らない。その意味で、予測できないのは読者の「不利益」だけではない。結局のところ、あらゆる文章の価値は自分も含めた「読者個人のもの」でしかないんだろう。

たとえば、ひとつめのリンク先に「僕自身は『毒にも薬にもならないことは、自分を読んでいく材料にならないという意味で、価値が無い。』と考えています。」とある。非常に利己的だという意味で、ぼくはこの考え方に共感する。「毒にも薬にもならない」のは取りも直さず「ブログ主にとって」であり、要するに「ぼくにとって」である。そして、読む方だって「自分にとって」価値があるかないかを判断する。当たり前といえば当たり前のことなんだけれど、ブログなど書いているとつい「読者のための正解」があるような錯覚に囚われそうになる。そんなものは、たぶんない。

まあ、ふたつめのリンク先にある「個人情報」の例なんかはネットメディア云々以前の問題だろう。当人の許可なくネットを通じて連絡先を教えるなんて、男性用トイレの個室に嫌いな女性の携帯番号を書いちゃうレベルの愚行と知るべきだ。単にモラルの問題である。より深刻なのは、まなめ氏のいう「書くべきでないこと」が、そもそも他者間で一致させにくい点ではないかと思う。むしろ「書くべきこと」と思って書いたことが、誰かにとって酷く不快であったり不利益だったりすることもあろう。極端な話、ぼくのエントリーのせいで誰かが死なないとも限らないのである。

予期せぬ「不快」や「不利益」まで完全になくそうと思うなら人は沈黙するしかない。けれども、それは同時に「快」や「利益」の可能性をも捨てることを意味する。もっというなら、コミュニケーションそのものの否定だろう。誰かと何かを共有するためには言葉を発するしかない。だから、ぼくはただただ「利己的」にブログを書く。「ウケ」を狙ってみたりもする。そして、偶然誰かが愉快に思ってくれたなら重畳、くらいに考えることにしている。また、酷く不快に思う人や不利益を被る人が出ることを内心ビクビクと恐れながら、あえて自重しないでいこうとも思っている。

なにしろ、何を書いても誰かに益をもたらす可能性はゼロではないのだから。

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