「上にいる人」の正しい定義

そもそも対立概念の設定が間違っている。

上にいる人は見下ろさない - タケルンバ卿日記
上にいる人は、降りてこない - 背後からハミング

マッチョvsウィンプもモテvs非モテも勝ち組vs負け組も、ある対立概念の上澄みにすぎない。つまり、本質ではない。だから、上にいる人というのは何も客観的なマッチョやモテや勝ち組のことではない。じゃあ、本当の対立は何かといえば、それはもう幸福vs不幸でしかない。これは100%主観の問題だ。1%も客観の付け入る隙はない。そして、最初に列記したような対立概念は、「幸福そうに見える人たち」と「不幸そうに見える人たち」を特定の基準で分類しただけのものだ。だから、その基準が自分の幸福観に繋がらない人にとっては、そもそも対立概念として成り立たない。

ひとつめのリンク先でタケルンバ氏が書いているのは、つまり自分の幸福観はそうした対立概念の外にありますよ、という話である。とてもシンプルだ。ただ、対立概念で語られる幸福はとても分かりやすい。モテるのが幸せとかお金持ちが幸せとか、もうどんだけ単純だよ、というくらい分かりやすい。それに引き換え、タケルンバ氏のようなあらゆる対立概念から自由な幸福というのは実に分かりにくい。サンプルとして役に立たない。モテることも金持ちになることも仕事で成功することも誰かに評価されることも別に幸福ってわけじゃないよね、となると何が幸福なのか、と。

ただ、ここに考えが到ることは重要だ。何が幸福かは誰にも分からない。翻って、何が幸福かは自分で決めるしかない。そういうことになる。上にいる人は見下ろさないとタケルンバ氏はいうけれど、「他人が自分より不幸だと認識することが幸福だ」という価値観も、価値観の多様性を尊重する以上否定はできない。そういう人は自分の幸福のために他人を見下ろすだろう。それでいいのである。そのとき、何を基準に他人を見下ろすかはその人次第だ。ならば、見下ろされた方がその基準を採用しなければ傷付くこともない。むしろ、誰かの幸福に貢献したと喜んでいいくらいだ。

ここで「上にいる人」を再定義する。それは「自分は幸福であると認識している人」だ。ならば「上にいる人」が「降りてこない」のは当たり前である。つまり、ぼくたちが羨むべきは「マッチョでお金持ちでアルファブロガーで著名プログラマーの小飼弾氏」ではなく「なんだかんだいって幸せそうな小飼弾氏」なのである。その属性は幸福のサンプルとして役に立つ部分もあるだろうけれど、幸福が主観的なものである以上、他人の幸福を自分の基準としてそのまま採用することにあまり意味はない。まったく自分に向かない幸福の基準を持ってしまえばかえって不幸である。

上にいくことは自分なりの幸福を見付けることだ。これは、すべての人に可能性がある。

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