妄信という名の自堕落が人を不幸にする

絶対というのは自分の中にだけあるものだ。

某全国紙に掲載されるはずだった秋葉原通り魔事件のコメント - MIYADAI.com Blog
『いい学校・いい会社・いい人生』という物語 - アンカテ

自分の絶対が、他人にとっても絶対だと思う。そこから多くの不幸が生まれる。上のリンク先でいうなら『いい学校・いい会社・いい人生』というのがそれにあたる。ぼくは、絶対的信念みたいなものは自分の幸せのためだけに持つべきものだと思っている。自分を不幸にするような信念なんて糞の役にも立たないばかりか、ただの害悪である。あまつさえ、他人を不幸にするために自分の信念で洗脳するなどは論外である。学校で落ちこぼれた我が子に『いい学校・いい会社・いい人生』の信念を説き続ける。本当に幸せを願うならそんな不幸の洗脳は止した方がいい。

そもそも過程込みで信念化するからダメなんじゃないか。「いい学校」⇒「いい会社」⇒「いい人生」も「顔がいい」⇒「モテる」⇒「いい人生」も同じ問題を孕んでいる。「凄腕プログラマー」⇒「お金持ち」⇒「勝ち組」なんかも同じだ。要するに、手段と目的が分離できていない。自分にとっての幸せにハズせないものは何か。大切なのはそこだけで、どうやってそこに到るかはさしたる問題ではない。「拘束時間の短い仕事」⇒「生き甲斐の鉱石収集に明け暮れる」⇒「(たとえ生活はギリギリでも)いい人生」…みたいなルートだって否定される理由はない。

こうした幸せの過程は、どれもただのサンプルに過ぎない。そして、サンプル数が多いからといって自分にも当てはまるとは限らない。実情に合わない過程を信念化するのは、自ら不幸を呼び込んでいるようなものである。大抵の親というのは、我が子の人生について可能性の高いところに賭けたがる。幸せを思えば当然の選択である。だからサンプル数の多い、或いは、多いと思われている信念を子に吹き込む。『いい学校・いい会社・いい人生』はその代表だろう。問題はその信念が、妄信に達していないかどうかだ。目的は我が子の幸せであって過程ではないはずだ。

妄信というのは、精神の怠慢だ。それはすべて判断を外部に委ねる行為だからだ。きっと適度な批判的精神は、健全な信念を育む。だから、子の幸せを思う親であれば、借り物ではない自分の信念を持って我が子を育てるべきだと思う。そして、その信念を妄信に堕落させないため、常に自己診断を怠ってもいけない。妄信は我が子を不幸にする。そのくらいに思っておいた方がいい。子の方だって同じだ。ある程度の年になったら、もう、親の信念≒世間の価値観を妄信したままではいけない。無批判な価値観の絶対化が幸福を生む可能性は、たぶんそう高くはない。

自堕落な妄信を捨てる。それだけで、幸せの欠片くらいは見付かるのかもしれない。


【関連して読んだサイト(追記)】
『いい学校・いい会社・いい人生・いい人』という方程式 - オレドコBlog
#「学歴が専門性に変わっただけ」の部分はとても重要。もちろん他の属性に置き換えても同じ。

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comment - コメント

暴露された加藤の成育史は、なんか勝手に思ってたのとはちょっと違う。
もっとミスター平凡な感じを想像していました。
どこまで本当かわからないが、なんともずいぶんな親だったみたいですね。

ひとつめのリンク先の宮台さんのコメント中の
「成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる」
が、悪い冗談かと思った。
そんなことで大人がオタオタしてたら当の子供はどんな気がするやら。
まあ気にかけるのとおたおたするのはまた別ですけどね。

「子の幸せを思う親であれば、借り物ではない自分の信念を持って我が子を育てるべきだと思う」
そのとおりですよね。
もし「友達がいないと心配」が、親の借り物ではない信念であったら泣き笑いですが。

まあ、提示される「オヤジの背中」は叩き台であり半面教師ですらあってもいい。
そこに自由があれば。

> nbさん
こういう議論で難しいと思うのは、言外にある無言の否定の存在です。「高学歴」を良しとすると、自動的に「低学歴」がダメに思える。「友達がいる」ことを重視すると、「友達がいない」ことが重大な欠陥のように思える。本来どんな性質も単独でとりあげてプラスだのマイナスだのというのはあまり有効じゃない。組み合わせや状況次第でプラスにもマイナスにもなり得るわけです。だからこそ、どんな性質を重視し選び取るかは個人の価値観に委ねられていい。そこのところをもう少し主張する人がいてもいいのに、とよく思います。実際、「オヤジの背中」なんてのは、もっとも身近なサンプルのひとつではあるけれども、それ以上のものではないんですよね。

知識は人生に多くの選択肢を与えてくれると思っています。
それは勿論学校で教わるだけのものではありませんが。

社交場では絵画や音楽、国際情勢、経済の話が話題になることが多くあります。(ファッション、映画などもありますが)
その場では知っていて当たり前の知識は、学校で教わるものばかりだったりします。

学歴、と書くとおかしくなります。
学校で学ぶ知識の質、と置き換えてはいかがでしょう。
そして、進学校と呼ばれる場所ほど、多くの知識を詰め込んでくれたりします。与えられる知識の量に差があるならば、親がより良い学校を選びたくなる気持ちもわかります。

> tamanegiさん
「知識は人生に多くの選択肢を与えてくれる」というのは、ぼくもその通りだと思います。だから、学校に期待するものを間違わなければ問題はないんでしょうね。学ぶことの楽しさや豊かさを説かず、合格することと卒業することばかり考えさせることが、結果的に人生の選択肢を狭める可能性があるんじゃないかとぼくは思います。いい学校に学ぶことそれ自体がダメなはずはないですもんね。

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