「世界に一つだけの花」は幸福よりも不幸を量産する

問題は「世界に一つだけの花」が幸せになれるとは限らない点ではないか。

SMAP「世界に一つだけの花」は、ネオリベ礼賛の歌です - 女教師ブログ

歌詞に面白い註をつけるネタとしては結構楽しめた。以下、ネタにネタをかぶせるという愚挙に出る。まず、「世界に一つだけの花」はリンク先ほど曲解しなくても、そもそもあまり優しい歌ではない。自分は世界で唯一の存在である。そう信じられる人はすでに十分恵まれている。自分なんて所詮代替可能な社会の歯車であり、没個性的なその他大勢にすぎない。そんな自己否定に囚われている人はいまだ多いはずだ。そういう人たちに「唯一個性的な自己」みたいなものを礼賛して見せたところで、まるで救われた気持ちにはなれないだろう。むしろ凹むかもしれない。

他者抜きの幸福。そうしたものがあり得るのかどうかは分からない。少なくとも、今のところ有効な方法論は見付かっていないと思う。一般に人は他者との関わりの中でしか幸せを実感できない。であれば、他者を意識する場として「市場」を想定するのは、あながち的外れではない。他者の視線を必要としない野草であることも、無論、否定されるべきではない。けれども、他者から一顧だにされない花でもいいよね、という歌は人を幸せにするだろうか。誰にも見向きもされないなら独りで幸せになればいい。そんな詩に共感できる人がそう多くいるとは思えない。

実のところ、オンリーワンたれ、というのは鶏頭牛後の極みを狙えというのに等しい。競争相手のいないジャンルに君臨するナンバーワン。それをオンリーワンというのである。だから、ナンバーワンとオンリーワンは対立関係にあるわけではない。包含関係なのである。つまり「世界に一つだけの花」というのは、究極のロングテール商品として生きろというメッセージソングなのである。これはこれで厳しい話ではある。ロングテール商品とは、あくまでも広く遠くまでリーチすることで成り立つ商品群だ。向こう三軒両隣の世間にいて報われる可能性は極めて低い。

性質だけがロングテール向きでリーチ力=コミュ力がない場合、その人が幸せをつかむ可能性は恐ろしく低くなる。自らプレゼンする力なんてあるはずもなく陳列場所も選べない。その意味で花の喩えは厭味なほどに現実的である。「花屋」で人目につく表通りに陳列される花は限られている。その中で気に入られて買われる花はさらに限られている。ほとんど運次第といっていい。売れずに枯れていく花も少なからずあるだろう。何という身も蓋もない現実か。「その花を咲かせることだけに一生懸命にな」った結果が、孤独な生涯である可能性を思わずにいられない。

それでも「世界に一つだけの花」でいい、そういい切れる人は強い。

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