「理屈っぽい人間」はおしなべて不幸である

人が理屈を求めるとき、そこにはたぶん、ふたつのスタートラインがある。

ひとつは、ゼロからのスタート。これは、好奇心や探究心に基づくもので、「なぜ、月は見かけの形を変えるのか?」といった類の疑問に端を発する。もうひとつは、マイナスからのスタート。これは日常を覆う不幸に起因する。「なぜ、友だちができないのか」「なぜ、恋人がいないと辛く感じるのか」「なぜ、お金が儲からないのか」…などなど、人生の不具合は数え上げればキリがない。たとえば百花繚乱の理屈が楽しめる「はてな村」など眺めているとそのことがよく分かる。そして、ぼくたちが日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないか。

およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしない。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりしないだろう。理屈を捏ねるのは「リア充」になり損なった人間ばかりだ。「エリート」ということばにひっかる人は「エリート」について、「差別」に晒された人は「差別」について、「才能」に思うところのある人は「才能」について理屈を捻りだし、どうにか呑み込んでやろうともがく。内面が「理」を求める。そうやって、どんどん理屈っぽくなっていく。

ぼくがブログでコミュニケーションやモテについて、或いは、仕事や収入について理屈を捏ねるのは、やっぱり、そこにある種の不幸を感じてきたからだろうと思う。そして、いまなおそこに不幸の片鱗を感じ取ってもいる。それは他人の言葉の中にであったり、自分の割り切れない感情の中にであったりする。そして、そうしたあまりにありふれた不幸の中には、本質的に「どうにもならないこと」が多く含まれている。つまり、それら「人生の不具合」を正すことは、ほとんどできない。努力や運がうまく作用することもあるけれど、そんなものはごく限られたケースにすぎない。

理屈っぽい人間は、だから、たいてい屈託を抱えている。「理屈っぽい」というのはただの性格ではない。それは理屈の向こうに「不幸」を見付けてしまったことの証左である。それは、その人間の処世術であり、不幸を御する作法でもある。理論武装などというとネガティブなイメージばかりが先行しがちだ。けれども、ぼくは「理屈」で飼殺すべき不幸はあると思う。「それは本当に不幸なのか?」と考えることはときに有効だ。意図して他者を貶めることで自分を守るような「理屈」をぼくは嫌悪する。けれども、不幸を相対化しうまく付き合うための「理屈」をぼくは愛する。

だから、不幸と戦おうともがく「理屈っぽい人間」が、ぼくは好きだ。

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