守銭奴批判の言説に決定的に足りないもの

残念なのはいいオチが見つからなかったことではなくビジョンがないことだ。

守銭奴どもの言説にはホントついていけない | 住 太陽のブログ

いいたいことは解かる。解かる気がする、というべきか。「勝ち組」云々の話は、少なくとも人生の幸福とは何ら関係のない話だとぼく自身が思っている。ちなみにここでいう勝ち組は、時流に乗ってうまく儲けた成金のことだとぼくは理解している。ただ、それを守銭奴と呼ぶのはどうかと思うし、ビジネスが人生を賭けるほど面白いという人を否定することはできない。聖人を目指して徳を積むことと、お金持ちを目指してお金を儲けることは、自分の幸福目標に向かって頑張るという点で本質的に何ら変わらない。金より徳の方が偉いとか思うのは個人の価値観の問題でしかない。

自分の信じる藝術を追求する。自分の信じる社会貢献に邁進する。大好きな切手収集に血道をあげる。学究の徒として真理を追究して生きる。やりたいことがあるなら、好きなように生きればいい。生き甲斐そのものに優劣も貴賎もない。ならば、お金を儲ける、という生き甲斐だって同じように認められていい。自分の生き方を腐されることを嫌って他人の生き方を腐すのは初歩的な自己矛盾である。つまり、リンク先の人が批判すべきは「自分と価値観の違う人をバカ呼ばわり」する行為についてであって、資本主義社会ゲームを愉しむという生き方についてであってはならない。

経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由 - 分裂勘違い君劇場

たとえば、これなんかも最初のリンク先の言葉を借りるなら「銭豚になること、奴隷として最適な自分になること」を説いた言説ということになるんだろう。けれども、これを格差に苦しむ人に向けて書かれた処方箋として読むなら、内容の正否は別として意味があると思う。格差を意に介さない生き方をしている人に、「バーカバーカお前もこっちの土俵で闘えって、マジで!」とか書いているわけでは、たぶん、ない。参考にする人はするだろうし、この処方箋が覿面に効くタイプの病にかかっている人もいるかもしれない。問題なのは「これだけ」が最適解だと思い込むことだ。

だから、この手のエントリーに対する「それって本当に人生の成功と言えるの?」という反応自体は健全だ。どんどん声を上げていい。ただ、最終的に「それも自分が幸せなら成功だ」という観点を失くしてはいけない。そして、「資本主義の奴隷」にならないで幸せになれる対案を示して欲しい。今にも収入源を断たれそうな人間に、今にも路頭に迷いそうな人間に、「資本主義の奴隷になることが人生の成功ではない!」なんて説いたところで飯の種が沸いて出るわけではない。そこに資本主義の奴隷の観点から、こうすれば可能性あるよ、と示唆することには一定の意味がある。

それ以外の道もあるなんて煽りをくれるなら、ちゃんとその道を示すべきではないか。

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