まやかしではない「真の結果平等」を夢想する

人間が求める「結果」とは何か?

人による。それが最終的な回答だろう。たとえば、共産主義的なものを一種の「結果平等」と捉える人がいる。ありていにいえば、商才ある人もそうでない人も頑張った人もそうでない人も、みんな押し並べて平等に富が分配される。そういうものを「結果平等」とする考え方である。そうだろうか。違うだろう、とぼくは思う。それはただの「機会平等」である。何故なら、そのとき分配されるのは、数多ある生きる資源のひとつであって目的ではないからだ。それをどう使ってどんな結果を得るかが問題なのである。その意味で「富」は「知識」やなんかと同じレイヤーに属する。

いわゆる「機会平等」というのは、より良く生きるための「条件」をできる限り平均化することで、各自が人生におけるなにがしかの成果を「平等に」目指せる環境を作ろうという考え方だろう。そこから先は、個々人の才能や努力や運で各々目指す「結果」を手に入れてね、という話だ。それじゃあ「富」を、より直截に「お金」を均等配布することは「結果」を平均化することになるか。否、だろう。それを使ってどんな「結果」を得られるかは、個々人の才能や努力や運次第である。これは、紛うことなき「機会平等」である。それを「結果平等」などとはまやかしでしかない。

だから富の再分配なんて無意味だ、などといいたいわけではまったくない。ただ生きることすら困難な人間がゴロゴロ転がっているような世の中は「機会平等」ですらない。つまり、「機会平等」を声高に叫ぶ人こそ適切な「富の再分配」について真剣に考え、その実施を断固主張すべきである。繰り返すけれど、今使えるお金がいくらあるかは「結果」ではなく「機会」に属する問題なのである。もちろん短期的な意味では「必死で働いた結果」であり「宝くじが当たった結果」であり「有望な株式に賭けた結果」だろう。が、そんな短期的な結果「だけ」平等化しても仕方がない。

長期的な「結果」ということになると、冒頭にも書いたように、これは一概にいえない。馬鹿を承知であえていうならそれは「幸福」ということになろう。「結果平等」即ち「平等な幸福の分配」である。そんなことを真顔でいえば何を夢みたいなことをと眉を顰められても仕方がない。けれども、何故それが夢物語でしかないのかは考えられてもいいはずだ。そして、そこには「富の再分配」を「結果」と考えてしまうような貧困な価値観が絡んではいないか。その価値観は「富を平等化したのだからそれで幸せなれるかどうかは自分次第」という「自己責任論」の亜流でしかない。

実のところ、「真の結果平等」とはある種の思想や道徳のようなものではないかとぼくは思う。結果というのは、「出てしまうもの」だ。そして、その出力結果を一律にすることなど絶対にできない。そして、ある条件で無理矢理一律にしたところで平等な幸福を生みはしない。お金という限定的な価値しかないものを配布してこれで幸せだろうなんていうのは、世界中の男に藤原紀香を配布してこれで幸せだろうといっているのと同じである。ノリカがいれば幸せという人間もいれば、ノリカがいても全然幸せじゃないという人間もいる。当然のことだ。平等はそんなところにない。

そして「真の結果平等」とは「出てしまった」100人100様の「結果」をすべて等価とする思想なのではないか。「富の再分配」も含むできる限りの「機会平等」を目指した上で、「結果」の差異による価値に同調圧力的なバイアスをかけない。使い切れないほどのお金を貯め込む人生も、一切の物質的な富や金銭的価値とは無縁の人生も、友だち100人に囲まれた人生も、ただ独り自分だけの世界に没入して過ごす人生も、モテも非モテもオタクもスイーツ(笑)も、それらはただの差異にすぎず皆一様に価値ある存在、或いは、無価値な存在である。世間的な意味での幸不幸などない。

そんなフラットな価値観だけが結果の差異による不平等という幻を消し得るのではないか。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/621

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索