不幸の第一原則
ネタにマジレスだとしても、こういういい方は悪くないと思う。
とはいえ、幸福の第一原則についてはその通りなんだけれども、やっぱりキレイ事なんだよな、とも思う。そこで、不幸の第一原則。「不幸の多くは他者との比較から生まれる」。勝手に作った。たとえば30歳でニートを卒業して、なんとか頑張って年収300万を確保したとする。当たり前のようにサービス残業の毎日。けれども、ニートより充実している。それなりに一人前になれたかなと幸せを実感したりもする。ある日、ネットで今時の30代の平均年収を知る。ああ、おれってやっぱ底辺じゃん、とブルーになる。…というようなことは割りとあるんじゃないかと思う。
もちろん年収1,000万の同年輩を妬んだところでどうなるものでもない。幸せが金で買えないことを主張し、年収1,000万の幸福にケチをつけたところで、相手の幸福を減らした分が自分の幸福に上乗せされるわけではない。それはその通りだ。けれども、もしも同年輩の年収が軒並み300万だったらこんな不幸とは無縁なはずだ、と思ってしまうのも心情的には理解できる。幸福のような極めて主観的なものを客観的ものさしで測ろうとするなんてナンセンスではあろう。そもそも、年収が平均以下だと知ったくらいで霧散してしまうような幸福は本当の幸福ではないとも思う。
とはいえ、幸福を完全に主観化するのはとても難しい。他者の幸福を常に参照し、それと競い、乗り越えることで幸福を感じる。そうできる人は運が良い。要するに、競争社会における勝ち組だ。これは社会的な価値観と自分の幸福観が一致している幸運な例である。他者の評価を得やすいという点で、自分の幸福を確認しやすい。一方、他者の評価を得にくい幸福観を持ってしまった人は、その価値観に自信を持ち続けることが難しい。人はそれほど強くはない。自分だけがいいと思ったものをいいと思い続けることは困難だ。だから、他者の目にも幸福な自分を欲する。
他者の幸福と自分の幸福とは本質的にはまったく無関係だ。幸せそうにしている誰かの立場に自分がなったとして、その境遇を幸せに感じられる保証はない。というより、幸福に感じない可能性の方が高いように思う。だから、他者の幸福を妬む人が本当に妬んでいるのは、恵まれた環境なんかではなく、他人の幸福感そのものなのである。これは相当に難しい問題である。何故なら、幸福になるための分かりやすい目標が立てられないからだ。良い嫁もらってサイコーという人を妬む気持ちは、おれも良い嫁もらえるように努力しよう!という目標に全然繋がらない。
結局、自分の幸福とは何か、を見付ける以外にこの手の不幸を乗り越える術はないのである。
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posted in 08.07.07 Mon
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