不満がないから幸せになれないという深刻な矛盾

幸せというのは要するに何かが満たされることだろう。

空腹が不満な人は満腹になることが幸せだろうし、貧乏が不満な人は裕福になることが幸せだろう。彼女のいないことが不満な人は彼女ができれば幸せだろうし、不細工が不満な人はキレイになれば幸せだろう。けれども、今の世の中、心底不満を持っている人間なんてどれほどいるんだろう。いや、いい方を換えよう。毎日ご飯が食べられるなんて幸せだとか、食えるだけの給料が貰えて幸せだとか、彼氏彼女がいて幸せだとか、ルックスが素敵で幸せだとか、そんな風に思える人間がいったいどれだけいるというんだろう。不幸ではないから幸せだ、とは歯切れの悪い答えである。

手に入らないうちはそれが手に入れば幸せだと思えたかもしれない。そして手に入った瞬間には、或いは幸せを実感しただろう。けれども、そんな感情はさして長くは続かない。あっという間に幸せな気持ちを消費して慣れてしまう。手に入ったあとの状態が幸せなわけじゃない。ただ手に入ったという「変化」だけが幸せな気持ちを連れてくる。しかも、多くの人が持っているものを自分が持たないことはストレスだけれど、それを手に入れたところで大した喜びは生まれない。つまり、「ない」ことが不幸だからといって、「ある」ことが幸福だということにはならないのである。

そして、ぼくたちは大抵のものをすでに誰かが、そう少なくない人たちが持っていることを知ってもいる。何もかもが大したことではない。自然、幸せの閾値は上昇し続ける。もちろん、瞬間的には羨ましいと思うことはあろう。メイド付きの豪邸で暮らせるなんて羨ましいとか、戸田恵梨香とセックスできるなんて羨ましいとか、ブログのアクセスが毎日100万PV越えなんて羨ましいとか、そんな気持ちになることは結構ある。けれども、それはまったく間歇的なものにすぎないし、手にしたところでやっぱり我慢していたう○こを一気にひり出した程度の、瞬間的な幸せでしかない。

結局のところ、ぼくたちには決定的に足りないものというのがない。誰かに嫉妬してみたところで、その誰かになりたいわけではないだろう。ぼくたちはもう、無条件で幸せな人間がいるなんて信じられるほど初心ではない。情報は溢れている。宝くじで3億円当たっても、このブログのアクセスが1,000倍になっても、一時の興奮の後にはこれまでと変わらない平板な感情が戻ってくるだけだろう。何しろ、そんなものがなくてもぼくたちはさしたる不満も不便もなく生きていける。何もかもが「余剰」でしかない。不満のないところに「余剰」をぶち込んだところで満足は得られない。

既に幸せは「なる」ものではなく、ただ「消費される」ものになってしまったのかもしれない。

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