そもそも学校に図書館は必要か

世界の本当の通貨はドルではない。「意味」である。

朝日新聞に「ライトノベル学校で必要か」という投書が掲載される。 - 三軒茶屋 別館

人間には娯楽が必要だ。娯楽がないと死んでしまう。この場合の娯楽はかなり広義だ。陳腐ないい方になるけれど、それは心の栄養といい換えてもいい。体に栄養が必要なように、精神にも栄養は必要だ。これがないと自殺したり廃人になったりする。ただただ本能に任せて「生きて子孫を残す」だけの生を生きることは、人間には苦痛なのである。だから、本能的な行為であるはずの食や性までが娯楽の要素を帯びる。そこに至る過程、たとえば調理や恋愛といったものまで愉しんでしまう。それが人間の性なのである。そして、娯楽というのは「意味を見い出す快楽」でもある。

人はいつの頃からか「意味」を食べるようになった。「無意味」を恐れ、忌み嫌う生き物になった。おれなんて生きている「意味がない」といっては死にたがり、そんなことをして「何の意味があるんだ」といっては行動することを止めてしまう。それでも自分で「意味」を決められるなら問題はなかった。が、現実は違う。多くの人間が社会生活を送る道を選び「意味」は共有された。「意味」が社会性を帯びると、社会が認める「意味」こそが「意味を持つ」という価値観が生まれる。これは、諸刃の剣である。社会が意味を担保してくれることもあれば、否定されることもある。

学校の持つべき役割については色々な意見があると思う。個人的には、「社会の中で生きる力を授ける場所」くらいに思っている。上段の話を受けて「社会が認める『意味』を教える場所」といい換えてもいい。つまり、学校が教えるべきは「社会のコードを読む力」なのである。これは、単純に教科として教えることのできない技術でもある。その効率的な習得機関として今の学校がうまく機能しているかどうかは別として、高度に複雑化した社会に直接放り出さず、子供にコードを読む力を習得させることには意味があると思う。問題は、その教材として何が相応しいか、だ。

小説、漫画、アニメ、映画といった娯楽は「意味」の塊である。何しろ意味しかない。その証拠に作品の「意味」が分からないとまったく愉しめない。逆にいえば、愉しめるということはそこから某かの意味を読み取っているということだ。そして、あらゆる作品は社会性を帯びている。つまり、多様な作品に触れることは多様なコードに触れることを意味する。その点、純粋に「意味」だけを提供するメディアが限られていた時代、読書という娯楽が教養の中心だったことは必然といっていい。翻って、現在において読書はそこまで特権的な位置を占めてはいないだろうとも思う。

学校内にネットはもちろん、図書、漫画、映画、ゲームを大量に用意する。それができるなら、すればいいとぼくは思う。多様であればあるほど好い。ただ、これらが必須だとも思わない。用意しても誰もがそれらを有効に利用するわけではないだろう。そもそも、大切なのは「意味」を与えることではない。「意味」の食べ方を教え、「意味」の功罪に気付かせることだ。後は、学校が用意しようがしまいが各自のやり方で意味を食べて生きるしかない。ライトノベルがどうだとかつまらないことをいっているから、「意味」という通貨をうまく交換できない子供が育つのである。

その程度の見識で閑古鳥の鳴く図書館を持つくらいなら無くしてしまっても問題はない。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/476

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索