「生殖能力の有無」を結婚の条件と考えることは非道か?

そもそも「いい話」が個別的な結果論なのは当たり前だ。

中出しハッピー! - ナイトシフト
「中出しハッピー!」は本当に「いい話」か? | blog.yuco.net

別にふたつ目のリンク先の主張が「間違っている」とはいわない。それは是非の問題ではなく、価値観や感情の問題だからだ。ただ、それをいい出したら世の中に「いい話」はなくなってしまうだろう。何故なら、「いい話」というのはすべて「結果的にいい話」なだけで、「もし○○だったら悲惨じゃん」という仮定はあらゆるレベルで可能だからだ。しかも、「いい話」というは共感レベルの評価であって理屈ではない。『恋空』を「いい話」だと思う人もいれば、「ビッチとエッチの話DEATHね、わかります」という人もいる。これを価値観の相違というのである。

結婚の意義や目的をどう考えるかに正解はない。それは個々人が、もしかすると、一生をかけて考えていくことなのかもしれない。それを「結婚は子供よりもまずふたりの幸せのためにするものだ」などと軽々しく決め付ける人をぼくは信用しない。「(自分は)子供よりもまずふたりの幸せを第一に考えて結婚したいな」というなら分かる。これらはまったく似て非なる主張だ。それは己の価値観が個人的なものに過ぎないことを認識できているか否かの違いである。ぼくは「ふたりの幸せのために、是非とも子供が欲しい」という価値観を否定する気にはなれない。

さらに、ふたつ目のリンク先のような主張が気持ち悪いのは、彼女たち(或いは彼ら)とて、きっと結婚相手を選ぶはずだと思うからだ。ただ、その条件の中に「生殖能力の有無」がないというだけのことだろう。代わりに「生活力の有無」だったり、「ルックスの好み」だったり、「性格の良し悪し」だったり、「性的な相性」だったり、「家柄」だったり、「人間性」だったりといった条件で相手を選ぶはずである。人によって「重視する条件」は当然異なる。人が伴侶を選別する条件に善悪などない。繰り返しになるけれど、これを価値観の相違というのである。

そして、異なる価値観を持つ者同士が互いの条件をクリアして幸せになる物語を「いい話」といい、価値観がぶつかり合ってうまくいかなかったり、どちらかの重視する条件がクリアできず不幸に終わる物語を「悲劇」と呼ぶのである。ひとつ目のリンク先に書かれた物語を「いい話」と読んだ人々が非難される筋合いは毛ほどもない。それを、書かれていないあれこれを勝手に想像して「本当にいい話か?」などとケチをつける。それで正義を為したつもりだろうか。そんな文章が、結婚して幸せそうにしているふたりの目にとまらないことを願わずにいられない。

「生殖能力の有無で結婚相手を決めるなんて酷い!産めない女の人格否定だ!」という考えを「一般論」として主張するなら、「経済力の有無で結婚相手を決めるなんて酷い!稼げない男の人格否定だ!」とか「ルックスで結婚相手を決めるなんて酷い!不細工な人間の人格否定だ!」とか「話の合う合わないで結婚相手を決めるなんて酷い!口下手な人間の人格否定だ!」とかいう主張も平等に「一般論」として認めなければならない。つまり、結婚相手を選ぶという行為そのものを、不遜であり、人格否定であり、不正義であると定義するしかなくなるのである。

もしもそれを公平と信じるなら、自ら結婚相手を選ぶ自由を捨てるべきである。

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