「馴れ合い」と「本気」を見分けることは本当にはできない

こうした感情の行き違いは珍しくないし、善悪の問題にも関心はない。

殺人予告されたので警察へ相談 - $ dropdb 人生

そんなことよりも、ここまでネットに親和性の高そうなはてな住民でも、やっぱりネットを本当の意味で「現実(リアル)」には感じていないんだなぁということに興味を覚えた。こんな風に不用意に「現実」なんて言葉を使うと誤解を生むかもしれない。要するに、ある情報に接したときにどこまで自分の身にひきつけて考えられるか、というような意味合いでの現実感を思い浮かべてもらえればいいかと思う。たとえば、2ちゃんねるで「逝ってよし」とか「死ね」とか「殺す」とか書かれても、それでアタフタする2ちゃんねらはあまりいない。つまりその手の話だ。

先のリンク先の書き手であるdropdbという人はこれを「慣れ合い」という言葉で表現している。意味合い的には「馴れ合い」と同義だろう。おそらくは2ちゃんねるを起点に蔓延したコミュニケーションの一形態で、耐性のない人が見たら喧嘩でもしてるのかというような罵詈雑言が飛び交っている。これは一個の文化に近い。大阪弁が今ほど全国に流布する前、関東の人たちが大阪人に「アホやなぁ、何考えとんねん」なんていわれて酷く罵倒されたように感じていたのと同じようなものだ。いまだに大阪人に対して口も悪いが柄も悪いという印象を持つ人は少なくない。

つまり、誰かの発する言葉をどこまでリアルに受け止めるかは、文化を共有しているかどうかという問題と、個人の感受性の問題をふたつながらに含んでいる。dropdbの「あの程度のはてブコメの罵りやりとりだったら慣れ合いのひとつだと思った」という言葉は、彼女が認識している文化圏で彼女が感じ取っている「現実感」を表明しているに過ぎない。もちろん、誰もがその「現実感」を共有しているとは限らないし、たとえ同じ2ちゃんねら同士やはてな住民同士であっても、埋められない差異というのはあり続けるはずだ。その齟齬が軋轢を生むことは容易に想像できる。

エントリーの流れやコメントでのやりとりを見る限り、dropdbの馴れ合い発言にhashigotanがキレた、という認識が大勢のようだ。つまり、dropdbは「遊び」のつもりだったのにhashigotanが「現実」に踏み込んだという見方である。dropdbがそれを「現実」と受け止めた判断理由は、「慣れ合いならやりとりをしている範囲内(こんかいだったらはてな)で領域を超えなければよかったとおもうんですよ。Twitter、2ちゃんねる等で家族や私に関する個人情報を取得しようとする行為は私がおえない範囲です。」といったあたりにあるらしい。これが彼女の現実感である。

さて、ここで極論を書く。hashigotanの現実感がはたしてどこにあったのか、という話である。彼女には「はてな」なんていう狭い領域に境界線など見えなかったのかもしれない。つまり、Twitterや2ちゃんねるでの行為を「越境」と捉えていなかった可能性を否定はできない。彼女の中で遊びの時間は続いていたかもしれないのである。もっといえば、オンラインとオフラインにさえ境界を認めない感受性だってあり得る。メールアドレスを調べ、本名を調べ、携帯番号を調べ、住所を調べ、人間関係を調べる。どこからがリアルかなんて問いはナンセンスなのかもしれない。

結論を書けば、すべてを「現実」と受け止めることと、すべてを「虚構」と受け止めることに本質的な差はない。ここでは「本気」と「馴れ合い」に置き換えてもいい。どこからが「本気」でどこまでが「馴れ合い」かなんて線引きは個人の頭の中にだけある虚構の境界でしかない。定義するのは勝手だけれど、他人に通用すると思うのは少々初心に過ぎる。たまたまお互いの齟齬が小さく済んでいる内はうまくいく。それだけのことだ。本件の場合、遊び続けていたhashigotanにdropdbがキレた、という見方もまた同程度にあり得るということを忘れてはいけないと思う。

何しろ、すべては虚構だといって遊びで人を殺せる感性だってあり得るのだから。

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