- 「女は共感脳」に共感し合う男たちを見て思うこと
- 「言葉」が好きなせいで、話し下手になったりもする
- マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来
- 少女の何を守り、何を尊重するべきか
- コミュニケーション不全者の欲情の表明が少女を不快にする
- 優しさはデジタル、善意はアナログ
- オンライン上で友だちを作るあまりにも簡単な方法
- ネットでよく見る助言好きはリアルでも助言しまくりなのか?
- 口ベタだからモテるコミュニケーションの心得
- 不完全なコミュニケーションという豊穣
- 自分だけ気持良くなろうと思うな
- ちょっとエッチしただけなのにデート代を要求されて困っています
- 知人を紹介するのに学歴を持ち出すのが失礼な理由
- 「わかって欲しい」のは贋物の自分
- 女の子に限らず大抵のお喋りは対話を求めていない
- 「カワイイ」の功罪とコミュニケーションの強度
- すべての議論は感情論である
- 日常の大喜利化、或いは、ネタ化という現実の中で
- 気持ち悪くないインターネットはどこですか?
- すべてのコミュニケーションは誤解からはじまる
- 恵まれた精神の無邪気が切り捨てかねない大切なもの
- 承認という幻想をシェアするために
- 「空気なんか読めなくて良い」が欺瞞に見えるレトリック
- 悪意に当たって死なないためにすべきこと
- 傷つきやすい人が救われるために実践すべきこと
- 「馴れ合い」と「本気」を見分けることは本当にはできない
- コミュニケーション幻想
夫婦が「分かり合えない」のはなぜか?
よく見聞きする夫婦間の行き違いは、たいていこのパターンで表面化する。
そもそも、これは「分かり合えない」という話ではない。互いに「歩み寄る気がない」だけのことだ。いや、この夫婦の仲が悪いとかそういうことをいいたいわけではない。少なくとも、このとき、この話題においては、という話だ。「分かり合えない」という表現は、おそらくは無意識に選んだレトリックだろう。客観的には「わたしの気持ちが分かってもらえない」が正しい。けれども、それでは彼女の思いとはズレる。だから、そこに書かれた内容を逸脱して、「分かり合えない」という修辞が使われたんだろうと思う。状況としては事実でなくとも、心象としてはより「真実」に近い。だから選ばれた、と考えるべきである。
段階を踏もう。このとき彼女が「分かって欲しかった」ことは何か。「ああこの人全然わかってないんだと思った。」の後ろに続く文章が、一義的な「答え」だろう。要約すれば、「専業主婦だからってもうすぐ1歳の子供を連れて旅行なんて大変すぎて無理」という話である。北海道に行きたいのに行けない。それが真意だろうか。否、だろう。おそらく、彼女はどうしても北海道に行きたかったというわけではない。だから「1日くらいなら親に預けて行ってくれば?」とか「ベビーシッター雇う?」とか、北海道旅行を実現するためのどんな提案をしたところで「それがどんなに大変か≒無理」という答えが返ってくるだけだ。
子育ての大変さを分かって欲しい。真意はこちらだろうか。本質的には、否、だろう。たとえば、夫が子育ての大変さを分かっていて「子供が大きくなるまでは無理」と答えていたらどうか。彼女は「ああ、分かってくれている」と満足しただろうか。ぼくはそうは思わない。たぶん、子育てについてだけ何かを分かって欲しいという話ではないはずだ。あなたも色々と大変だと思うけど、わたしだって色んなことを考えながら一所懸命に生活してるんだよ。これならどうか。この辺りまできてようやく、問題が本質的になったきたように思う。が、まだ先はある。なぜならこの辺りまでは誰でも「なんとなく分かっている」からだ。
ある程度の歳になれば誰だって、苦しみのない薔薇色の人生を送っている人なんていないくらいのことは「分かっている」。妻にも、夫にも、男にも、女にも、親にも、子供にも、辛いことくらいあるだろうし、楽しそうに生きているからといって苦労や悩みがないわけでもない。けれども、たいていの人にとって、他人の大変さについて自分の大変さ以上に興味を持つことは難しい。身近なほど、見て見ぬフリをしてしまう。件の夫は「北海道行きたいなー」の裏側に、彼女が書いたようなディテールを思い描くことはできなかったかもしれない。けれども、そこになにがしかの不満のようなものくらいは読み取ったかもしれない。
つまり、求められたのはその不満に寄り添った形の、彼女の思いに配慮したコミュニケーションだった。そしてこれは、決して一方的な話ではない。確かに、「お前は行こうと思えばLCCでも使っていつでも日帰りできるじゃん」といった夫の言葉は心無いものだったろう。そう、それはまさに「心無い」言葉だった。彼は本気で「LCCで行け」と思ったわけではないだろうし、妻がそれを実行するとも思っていなかった。だから子連れ旅行の大変さをいくら説明したところで意味はない。彼の真意は「いまそんな話は聞きたくない」だったろうし、その裏側には彼女が滔々と書いて見せたくらいのディテールが詰まっていたはずだ。
あそこに書かれた文脈だけを見れば、「子育てに理解のない夫」と「伝えもせずに理解を求める妻」といった単純化された対立構造だけが目立ってしまう。けれども、夫婦の思いがすれ違うのは、そんな表面的な問題が本質的な原因ではない。せいぜい、表面化するきっかけにすぎない。もちろん、ここに書いたふたりの真意の話は、ただの想像で真実とは限らない。真実が分かるようなら誰も苦労はしない。ただ、こうした想像や斟酌ができるような関係を築いているか、その上で互いを思いやったコミュニケーションができているか、それを問うているだけだ。表面的な行き違いばかりが募るようではあまり健康的とはいえない。
冒頭リンク先の会話は、互いが「言葉を文字通りに受け止めて、それ以上の思いを斟酌しなかった」会話のひとつの典型例だろう。どちらにも歩み寄る余裕がない。たまに誤解する人がいるけれど、「歩み寄る」ことは「譲歩する」ことや「負ける」ことと同義ではない。この場合の「歩み寄る」は「思いやる」というのに近い。人を思いやる気持ちというのは、思いやる当人にとっての幸せでもあるはずだ。互いの幸せのために互いの思いに寄り添う。コミュニケーションは本来、こういう幸せのためにこそ試みられるべきろう。夫婦に限らず他人同士が「分かり合えない」のはすでに前提だ。きっと多くの人が、そう思っている。
それでも「思いやり続けること」なら、難しいけれど、可能かもしれない。
posted in 13.01.29 Tue
trackback - トラックバック
trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/693
comment - コメント