恵まれた精神の無邪気が切り捨てかねない大切なもの

率直に生きるというのはとても難しい。

発言を額面どおりに受け取る - タケルンバ卿日記
「相手にこう思われたらどうしよう」を、捨てよう。 - GoTheDistance
#ふたつ目のリンク先がコメント欄になっていたため修正

確かに「社交辞令が効かない会」は魅力的だ。たとえば、日常が社交辞令や駆け引きや婉曲表現に満ち満ちていて疲れる。そんな風に感じるとき、避難場所として「社交辞令が効かない会」の会員同士で集まって、そんな面倒なスキルを必要としないコミュニケーションを楽しむ。これはなかなかに心惹かれるものがある。けれども、それは前提を共有しているからこそ得られる心の平穏だともいえる。前提を共有しない社会でこの方法を実践するには、相当の覚悟と根性が必要だろう。学校や会社といった簡単には逃げられない共同体内で、自ら居心地を悪くする可能性も低くない。

過剰な空気読みや、それを半ば強制するような無言の圧力を肯定するつもりは毛頭ない。そんなものを信奉するのは自ら人生を生き辛くするだけだとも思う。だから、リンク先にあるような提言は一定の意味を持つとは思う。ただ、うまく使うことができれば「婉曲」や「行間」がコミュニケーションを円滑にし、豊かにすることも事実である。人生を貧しくする言外の含みは捨ててもいいけれど、人生を豊かにする含みまで捨ててしまうのはもったいない。「死ぬまで一緒にいたい」を求婚だと受け取ってもらえないのは少し寂しい。まあ、そんなのは瑣末なことではあるけれど。

そもそも、人は生まれたときから他人の発言の裏を読んでいたわけではないだろう。大抵、多様な他者とのコミュニケーションを積み重ねる内に、言外を読むという絶望的な努力をし始めるのだと思う。それは額面通り受け取れない事例が少なくないという経験が育んだ処世術である。好意を率直に表明して手酷い拒絶に遭う。そんな経験を積み重ねた人が好意をうまく伝えられなくなる。ぼくはそれを弱いと切って捨てる気にはなれない。或いは、相手の好意を信じていたら、実は弄ばれていた…そんな経験が重なれば疑心暗鬼にもなろう。スルーしろ、で救われるなら苦労はない。

リンク先のタケルンバ氏やgothedistance氏のような恵まれた精神の持ち主はまだいい。けれども、虐待を始めとする幼少期からの不幸な経験が、とても不安定な精神を育んでしまうこともある。それが相手や自分を傷付けるような行為として発現するケースもあろう。そういう人はうまく好意を表現できないばかりか、本当はちゃんと繋がりたいと思っている相手を、ときに傷付けてしまったりする。それは傍目には本当に悪意や理不尽としか映らないことも多い。ツンデレ判定ができるほど生温いものではなかったりする。額面通りに受け取るなら彼らは切り捨てられるしかない。

いずれ、率直さを称揚できる人は自分がとても恵まれていることを忘れてはいけないと思う。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/399

comment - コメント

そもそもメタメッセージの弊害というのが、なにか捏造された問題のように思うのですが。

持って回った皮肉がイヤなのは、必ずしもコミュニケーションの重層性のせいでなく、単にそこに自分に向けられたあきらかな悪意が存在するからであって。

とくに悪気のない日常の会話で、何か真意は別にありそうなんだけど結局何が言いたいかわからなくてイライラする、そういうのは「言外の部分」の存在そのもののせいではなくて、「言外の部分」において十分に「語って」いないせいであり、また明示的な言葉との連携が不十分であるからだと思います。

そこをさらにサボってどうなるものか。

「読みすぎる」ことによる妄想的一人相撲を解決するのは「読み」自体の排斥ではなくて、まず自分が上手に「読ませる」、読まれようとすることじゃないのかな。
「言葉」はさしあたり平易でロジカルであることを目指せばよいのであり、しかしそれだけでは足りない。
何もこのあいだの「笑顔講座」への我田引水じゃないですが。

「社交辞令が効かない会」、魅力的どころか、実はうっとうしいほど暗黙の了解だらけの、ツーカーの仲間内でだけ通用する馴れ合い以上の何者でもないんじゃないの、って印象を受けます。

> nbさん
まず、ひとつ目のリンク先の話をすると、出発点となるエントリーではむしろ、TPOに合わせて省ける無駄は省いて明確に伝わるコミュニケーションを心掛けましょうという、至極真っ当な主張だったんだと思うんですね。下記のURIを参照する限り。
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20080328/p1
だから、その時点では不十分な伝達を棚に上げたサボりみたいな解釈はぼくはしてなかったんですよ。個人的には、これはまあそうだよね、くらいに思っていたわけです。で、これを前提として、もう少し極論を展開したのがひとつ目のリンク先の提言だと。書き手のキャラクターからいってもネタ半分本気半分といった感じですし、清濁併せ呑むという視点も保った上でのネタなので、そりゃあいい、おもしれぇとか思って読んだんですね。
ところが、これをまさしく額面通り受け取って、極論を一般論に仕立て、それがまるでコミュニケーションの最適解であるかのように礼賛してしまったのがふたつ目のリンク先だと、ぼくの目には映った。で、それはちょっと危ないよ、ピュアにすぎるよ、といういつものお節介を発動したのがぼくの今回のエントリーということになります。そういった視野の狭いコミュニケーションは、おそらく仰るような馴れ合い、それも恐ろしく排他的で窮屈な場所でしか通用しないものになりかねないと、ぼくも思いますね。まあ、そんな上目線で偉そうなことをいえるほどコミュニケーション巧者なわけではないんですけどね。実際、あちらのコメント欄で見事なディスコミュニケーションを演じてしまいました。今回ばっかりは反省しきりです。

コメントを投稿

エントリー検索