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コミュニケーション幻想
コミュニケーションの前提はディスコミュニケーションだ。
そんな当然のことをつい忘れそうになる。
つい、言葉を尽くせば分かってもらえるなんて思ってしまう。だから伝わらないと失望したり苛立ったりするハメになる。まず、伝わらないことが当たり前。それを肝に銘じるべきだろう。そして、分かり合えるというのは、互いに「つもり」になれることだと知らねばならない。
これは夢のない話をしているのではない。
たとえばどら焼きが好きなふたりが、なんとなく意気投合する。好きな気持ちを分かち合えるというのは、なんとなく嬉しいものだ。自分が好きな相手ならなおさらだろう。けれども実は、ひとりはどら焼きの餡を、ひとりは皮をこよなく愛しているのかもしれない。
このふたりがどら焼きの何が好きなのかについて語り合った瞬間、どら焼き愛好者同士として分かり合えたと思ったひと時は、実はただの錯覚にすぎなかったことが露見する。ああそう、餡が好きなんだ、おれは断然皮派なんだよね…と少し残念な気持ちになるだろう。
言葉というのは、コミュニケーションのために発明されたルールのようなものだ。相手のいい分が解かるというのは、いいたいことが想像できるというのに近い。つまり、そこで理解された内容にはある程度の幅というかアソビがある。だからこそ分かり合えたつもりになれる。
箪笥に足の小指をぶつけると痛いよね、というのは、経験していればなんとなく分かり合える台詞だ。けれども、そのふたりが味わった痛みはたぶん同じではない。それでも、人はとりあえず分かり合えたことにして納得する。これがコミュニケーションの基本である。
ここでもし「ぼくが箪笥に小指をぶつけたときは、2,30分ものた打ち回った末に、はっと見ると畳も両手も血まみれで、爪が2/3ほども剥がれていてホント参ったよ」云々…なんて話をしようものなら、互いがイメージしている痛みの違いを否応なく知らされることになるだろう。
言葉というのはどこまでも自己中心的なものだ。人は自分のモノサシでしか言葉を紡げない。つまり、言葉を尽くせば尽くすほど、シンパシーを得られる可能性からは遠ざかっていく。これはどんなに立派な人でも変えることのできない真理である。
ぼくがコミュニケーション能力に貧しいのは、たぶん語り過ぎるせいなんだろうと最近思う。シンパシーを得たいと願う相手に言葉を尽くしてはいけない。言葉を重ねることは自分と相手の差異を明らかにすることだからだ。互いを知り合うとはそういうことだろう。
一方、なんとなく分かり合った気持ちになりたい、同じ気分を味わっているというムードに浸りたい、そんなときには多くを語らないことだ。言葉の幅は無限に広がり、どうとでも解釈できるレベルにまで退化する。解かりやすい喩え話をするならこうだ。
恋人同士が夕陽がきれいな丘に立ち、「キレイだね」「なんかいいよね、こういうの」なんて囁き合う。そして、そっと肩を寄せ合う。このときふたりは、相手もきっと自分と同じようにロマンティックな気分になっているんだと信じることができるだろう。
思えば、ほとんど何も語っていないに等しい台詞だ。何をどうキレイだと感じているのか、どこがどういいと思うのか。互いの本当の気持ちなど藪の中である。けれども、それを口にするのは野暮というものである。口にしてはこの種のコミュニケーションは成り立たない。
愛し合うふたりに言葉は要らないとは至言である。
posted in 07.01.29 Mon
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comment - コメント
おはようございます。
言葉によるコミュニケーションは、その人の全てが分かるものではないですね。
だけど、「この人はこんなふうに思うんだ。」と新しい発見が出来ます。
同じ物を見ても、同じような体験をしても、人それぞれ捉え方が違うから、人間は面白い。
どら焼きが好きな二人が、一人は餡が好きでもう一人は皮が好きならば、餡の良さはどんなものなのか、皮の良さはどんなものなのか、お互いに情報交換できます。
それまで物事の一面しか見ていなかった事でも、多面的に捉えられるようになります。
私はそれが楽しいなと思います。(笑)
勿論、愛し合う二人には言葉なんていらない時もありますよね。
傍から見ていたら、「勝手に二人の世界に行ってらっしゃ~い!」です。
これを「オバサンの僻み」と言うのでしょうね(笑)
posted in 07.02.02, by makoto
この記事にトラックバックさせて頂きました。
どうぞ宜しくお願い致します。m(_ _)m
posted in 07.02.02, by makoto
makotoさん、いらっしゃいませ。
そうですね、コミュニケーション自体は、対象に興味がある限り楽しいものだと思います。ただ、思うことは「知る」ことと「分かる」ことは違うということです。
相手の考えや感情を「知る」ことはできても「分かる」ことは普通できない。それを分かったつもりになったり、分からせようとしたりするから、コミュニケーションがうまくいかないと嘆く羽目になる。特に「自分を分かって欲しい」と願う一方的な気持ちが強くなりすぎるのは危険だと、これは自戒を込めて思うのです。
まあ、そんなややこしいことを考えながら普段から話したりするわけじゃないですけれども。
posted in 07.02.02, by りりこ@管理人
りりこさん、ありがとうございます。
確かに「自分を分かって欲しい」と願う一方的な気持ちが強くなり過ぎるのが一番危険です。
これで、本当に頭を打ちましたから…^^;
それから、この一方的な願いが顕著に出るのは、親子関係と夫婦関係なのだと思います。
親子関係では、親は「あなたの為を思ってこんなに言っているのに、何故分からないの?!」と言いますが、分からなくて当たり前なのですよね。
例え親子でも、同じ人間ではないのですから。
それに、子供は子供の為に生きるのであって、親の為に生きるのではないのだから、自分の考え通りに子供が成長する訳はないのです。
一歩下がって「あなたはそう思うんだね。」と言えたら、親と子供の関係はまた違ったものになると思います。
そして、夫婦関係で離婚の原因の一つに「性格の不一致」があげられますが、この世に性格が一致する人なんて居ないと思います。
これも「何故あなたは私の事を分かってくれないの?」「お前は俺の事が分かっていない。」から始まっているのでしょうね。
私はあまりにも考え過ぎず話していたせいで、頭を強かに打ちましたが、良い経験をしたと思っています。
だけど、確かにこんなややこしい事を考えていたら、日常会話がスムーズに出来ませんよね(笑)
だから、心の片隅に置いておければ一番良いのだと。(^-^ )
posted in 07.02.02, by makoto
コミュニケーションに関わる失敗というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるものでしょうね。ただし、失敗の大小というのは本人の受け取り方次第で、場合によっては同じようなケースでも、人によって失敗だと感じたり、特に何も感じなかったり、むしろうまくいったと感じたり、一概に評価できるものでもありません。
この場合の「失敗」は、ほとんどの場合「自分の思い通りにならなかった」ことを指しているわけで、客観的に見て事態がどう推移したかとは、本質的に無関係なわけです。…などと、あまり突き詰めて考えると、何やら本当に夢のない話になりそうですね。
物事は「ほどほど」が一番のようです。
posted in 07.02.03, by りりこ@管理人