口ベタだからモテるコミュニケーションの心得

口ベタだからコミュニケーションが苦手で…というのは酷い了見違いである。

誰だって饒舌がコミュニケーションの敵だということくらいは経験的に知っているはずだ。なんて書くと、それは話がつまらないからだ、と思うかもしれない。残念ながら間違っている。話し上手の面白い話というのは芸である。つまり、娯楽だ。映画や小説みたいなものである。これはコミュニケーションとしてあまり効果的とはいえない。なぜなら、相手を受身にしてしまうからだ。もちろん、天性の話術で人を惹きつけて止まない人だっているかもしれない。が、極めて稀だろう。難しい上に見返りが少ないとくれば、何も不得手な人がチャレンジすることはない。

身も蓋もないいい方をすれば、誰もが気持ち好くなれる最大のコミュニケーションは「自分語り」である。逆にいえば、うまく「自分語り」をさせることこそ肝要なのである。にもかかわらず、口ベタを自称する人の多くはいかに自分が口ベタであり、いかに冴えない青春を過ごし、いかにモテず、いかにリア充とは一線を画した価値観を身に付けて今に到るかについて、実に饒舌に、また一所懸命に語ったりする。そうやって相手をつまらなくさせた挙句に、自分は口ベタだからうまく自分を表現できないのだとか、えらく見当違いな反省をする。原因はそこにはない。

そもそも、コミュニケーションの基本は自分を解ってもらうことではない。相手を解ろうとすることだ。目的を友好関係の構築におくなら、「こんなおれに興味を持ってくれ」とアピールするのではなく、まずは「自分に興味を持ってくれてるんだ」と感じさせることだ。弁が立つ必要はない。身に付けるべきはありふれた相槌と合いの手くらいのものである。これは相手を質問攻めにしたり、会話のイニシアティブを丸投げしたりすることを意味しない。積極的に「自分語り」を誘導するのである。多くの人は気持ち好く「自分語り」をさせてくれる人に好意的である。

であればこそ、口ベタはマイナスではない。むしろ、下手に達者な方が厄介だろう。注目すべきは相手の話の流れである。次に自分が何を話そうかと考えるのではなく、相手の話をどう展開させようかと考える。「あたしはこうだ」「ふーん、おれはこうだけど」みたいに自分語りに自分語りをぶつけるなんてのは、極力避けるべき悪手と肝に銘じるべきである。また、歯の浮くようなオベンチャラは逆効果なれど、いわれて悪い気はしないだろう程度にプラス評価することも忘れてはいけない。こうした心構えだけで、口ベタはコミュ巧者に化ける可能性が十分にある。

「高校まで彼氏とか全然できなかったし」「おれなんて彼女どころか友だちも数えるほどだったって」「へえ、そうなんだ。あたしは友だちはわりといた方かな」「まあ、教室で澁澤龍彦本読んだりしてるようなちょっと変な人間だったからね」「ふーん。あたし本とか苦手な方かも」「それが普通かと。そういや、年末とか忙しかったりする?」「ああ、忘年会とか結構誘われてるからね」「そっか、大変だね」「まあ、嫌いじゃないし」「おれって、割とそういうの苦手な人じゃん?」「ぽいよね」「…」「…」…とまあ、こういうのが拙い口ベタの典型だろうか。

「高校まで彼氏とか全然できなかったし」「女子高だったとか?」「ううん、共学」「好きな人とかはいたの?」「なんか、友だちになっちゃう感じでさー」「ああ、なんかわかるかも。友だち多そうなタイプに見えるし」「でもないって」「って、忘年会とか結構誘われてるっしょ?」「まあ、それなりに」「やっぱね。面倒見良さげだし、幹事的なことしたりとか?」「当たり。ま、いいように利用されてるわけよ。中高は何かしら生徒会とかナントカ委員とかやらされてたし、大学の部活でも3回生から部長とかね」…といった具合に話の穂を繋ぐ。この程度で十分。

うまく「自分語り」の快感を与えることができれば、そのコミュニケーションは半ば成功したといっていい。何か目的があるならもうゴールは目前である。これは何も、恋愛や友だち作りに限った話ではない。商談やなんかにもある程度は有効だ。仕事でも人と会えば空気を見て少しくらいは雑談もする。長く仕事をしている人なら、たいてい、ひとつやふたつ人に話したい実績や仕事上の経験を持っていたりするものだ。これも一種の「自分語り」である。それを気持ち好く語らせることができれば、その後の関係にも好い影響があるかもしれない。そういうものだ。

結論。「自分語り」はするものではない。させるものと心得よ。

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