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日常の大喜利化、或いは、ネタ化という現実の中で
これは、はてな村のひとつの傾向としては共感できる。
そもそもぼく自身、村外のブログを使っていながらはてな界隈への言及をやめられないのも、ここがネタの宝庫だからかもしれない。だから、興味の持てる内容だと思えば村の方言を調べるに吝かではないし、それがたとえ釣りやネタの類だったとしても自分の興味と書き手の意図は無関係だと割り切っている。また、用語の成立というのは、必ずしもタイプミスや誤変換の親戚ばかりとは限らない。特定の文化圏でそれ以外の言葉では表現し難いニュアンスを持つに到るケースもあろう。それはあらゆる学問がテクニカルタームを生み続けているのと同じことである。
もちろん、だからといって「非モテ」を論じることに意味があるのか?…と問われれば、ある人にはあるがない人にはない、としか答えようがない。そして、意味なんてないと思う人が「非モテ」という用語が内包するニュアンスを汲み取る必要はない。それはあらゆる言論、もっといえばあらゆる知識に共通していえる。何もはてな村に限った話ではない。だから、「非モテ」を論じる若い言説が、実は哲学のテキストに載っている極めて基本的な議論の縮小再生産にすぎなかったとしても、それをもってはてな村の言論が無意味であると切り捨てる理由にはならない。
要するに、スラングや用語を覚えることに意味があるのではない。そこで展開される言論に意味を見出すかどうかが問題なのである。そして、意味があると思うならその文化圏で使われる用語を覚える必要がある。それだけのことだ。過去の知はそれを前提とすることで議論を効率化し、より先に進んだ議論を可能にする。学問をするならここを無視することはできない。学問というのは、その分野に新しい知見を加えることこそが目的だからだ。翻って、古に記録された知を自らの手で再発見することは、学問的には無意味でも個人的体験としては十分に有意義である。
だから、リンク先に書かれている「2ちゃんねるやはてなでのネットスラングを重視する者たち」が「我が文化圏で遊びたいなら我が村の言葉を覚えなさい」と主張するとき、それは世界全体のために有意義ではないけれど、だからといって非難されるほどのことでもないと思う。いわば、日本で日本人と語り合いたいなら日本語を覚えてね、というのと同じことだ。あらゆる言論に世界的意義とか知の効率を求めるなら、あらゆる固有言語での議論は否定されなければならない。そして、残念ながらエスペラント語を話せる人は、たぶん英語を話せる人よりも少ない。
むろん、日本語しか話せない人間が、日本語に興味のない人間に「日本語も知らないのかよ!」と難癖をつけるような態度は非難されていい。あまり知性的な態度とも思えない。ただし、知性と知識は別物だろう。知性的でない人間の、その知識まで否定するのは行きすぎではないかと思う。使い道が少なく効用が小さい知識だからとて蔑ろにされるいわれはない。たとえそれがインターネットスラングであっても、だ。それは突き詰めれば、極東の島国でしか通用しない日本語の語彙を「知識」という囲いで捉えるなんてナンセンスだ、という理屈を正当化してしまう。
いうまでもなく、語彙というのはコミュニケーションに重大な影響を及ぼす。インターネットという語彙のない文化圏でインターネットを論じることは難しい。語彙の多様性は言説の多様性を担保する。哲学用語でしか語れない言説もあれば、はてなスラングでしか語れない言説もある。そして、言説の価値は語られた語彙で決まるわけではない。ただ、自分にとって新しい知見のない言説や、知識の範囲が違いすぎて理解できない言説が、個人レベルでは退屈に感じられるというだけのことだろう。まあ、知性的なほど退屈な言説が増えるということはあるかもしれない。
また、言説の大喜利化はすでにテレビやネットといった特定のメディアに固有のものではない。「コミュニケーション能力」なんて言葉がそれを端的に表している。これは社会全体が「いかに人にウケるか」を重視していることの証左である。対面コミュニケーションでのそうした風潮に馴染まず疎外された人たちが、一定数ネット社会に流れ着いて対面で果たせなかったそれを求めているという側面はあるかもしれない。難しいのは、その手の馴れ合いとそうでない言説との間に明確な線引きができないことだろう。それはコミュニケーションの根本的な問題ともいえる。
何しろ、リンク先の言説自体「はてな名物クネクネ大喜利」ではないという保証はない。
posted in 08.08.09 Sat
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