優しさはデジタル、善意はアナログ

それは「減る」というより「なくなる」といった方が近いかもしれない。

優しさは使うと減るのだろうか?(追記あり) - ビジネスから1000000光年

そして「なくなる」契機は、必ずしも「使う」ことだとも限らない。誰かに対したとき、相手が求めているか否かに関わらず自然と優しい気持になる。そのとき、優しさは「ある」。誰かに対したとき、相手が求めているか否かに関わらず優しい気持ちになれない。そのとき、優しさは「ない」。間はない。ほんの今まであった優しさが誰かのひと言や心境の変化で途端にゼロになる。或いは、ささくれ立っていた心がふとした拍子に優しさで満たされる。そういうものだと思う。残量が少ないから今は少ししか優しくできないとか、そんなのは優しさとは別の理性的行動にすぎない。

優しさは、実は自分だけのものだ。コミュニケートした瞬間、その気持ちは相手のものになる。優しさと受け止められるかどうかは判らない。実のところ、相手がそれを求めているかどうかさえ判らないのである。それは何もインターネット越しのコミュニケーションに限らない。実際に相手が目の前にいて、十分にコミュニケートしているつもりでも、相手の求めるものが何か知ることはほとんど不可能だろうと思う。ただ、ちゃんと相手に目を向けられていれば、その分だけ判断材料は増える。その差はとても大きいけれど、だから「確実だ」といえるわけでも、もちろん、ない。

それに、優しさみたいなものは求められれば出せるというほど便利なものでもない。感情に対して人ができることなんて、せいぜい「持ってしまった感情を表に出すか抑えるか」といった程度の消極的なコントロールにすぎない。もちろん、感情に依らない理性的な表現行為として「優しさのようなもの」を扱うことはできる。それをたとえば「善意」と呼ぼう。時間的、金銭的、精神的な余裕…そんな諸々を冷静に判断して、手を差し伸べるかどうか判断する。もちろん、そうやって冷静に判断して施した善意だって、善意と受け取ってもらえるとは限らない。哀しいことだけれど。

ゼロとイチしかない感情的な優しさと、原資を使って表現される理性的な善意。どちらが善いとか悪いとかいう話ではない。前者は状態であり、後者は意志である。それだけのことだ。あとは、前者をどうコントロールし、後者をどう行使するかの問題である。それが優しさであるなら、ぼくは「ネタにマジレス」であっても、抑えずに出してしまいたい。感情は抑えることに慣れると、どんどん出すのが難しくなる。そのことをぼくは身をもって知っている。そして、感情の発露は「相手のため」にするわけではない。だから、届かなくても仕方がないと思える。見返りも要らない。

一方、善意というのは難しい。意図してやる以上、結果に拘らざるを得ないからだ。

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優しさは情緒だ
ウェットなんだよ

優しさと意地悪は背中合わせ
どっちも情緒だから

善意は善意
ドライなんだ
善意と理性は好き

でも情緒は嫌い
気持ち悪い

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