マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来

人と上手くコミュニケーションがとれない。

とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。

マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができた。それは、ひとつには高度経済成長が生んだ共同幻想だったんだろう。マイホームは夢であり、恋愛は人生の彩であり、円満な家庭は幸福の象徴だった。新しく家電製品を買うことについて、好きな異性ができたことについて、マイホームのための貯蓄について、誰もが同じように語り合うことができた。

マスコミとマス(大衆)は価値観をキャッチボールし合い、互いにその価値観を強化し合ってきたんだろう。マスコミは文字通りマス(大衆)とコミュニケーションし、同時に大衆の間で消費されてきた。人々はマイホームという価値観を消費し、恋愛という価値観を消費し、幸せな家庭という価値観を消費した。三種の神器や3Cのような具体的なモノか幸福のような抽象的なものかにかかわらず、マス消費時代にはそれらが「共通の言語」として十分に通用した。それらの価値観に基づいてコミュニケーションする限り、多くの人々はちゃんと「解り合えた」のである。

風穴を開けたのは、おそらく「情報化」である。最大公約数的なマス(大衆)みたいなものは、当然、実在しない。幻想である。情報化以前、個人が知ることのできる自分以外の個人には限りがあった。だから、共同幻想の下に「多様性」は隠蔽され得た。それが明るみに出始めた。価値観はたぶん多様化したわけではない。その多様性が発見され始めただけのことである。「共通の価値観」を前提とするマス・コミュニケーションにとって、これは極めて重大な変化である。あえて「マスコミ」と書かなかったのは、それが大衆間のコミュニケーションをも含むからだ。

要するに、「価値観の多様性」と「コミュニケーション」はトレードオフなのである。過渡期において「価値観の多様性」に自覚的な人、或いは、自覚的にならざるを得なかった人ほど「コミュニケーションの不可能性」に直面しやすくなるのは、個人の問題というよりはコミュニケーションそのものの「本質」に関わる問題である。そして、共同幻想を幻想と認識した瞬間、コミュニケーションは不可能である、ということが前提になる。そこに「非コミュ」が生まれる。逆にいうなら、「非・非コミュ」にはいまだマス・コミュニケーションが「効く」可能性が高い。

いま、不自然なマスコミが衰退し、自然な非コミュが増えつつある。ぼくにはそんな風に見える。けれども、コミュニケーションというのはマスに限らず、元来「不自然」なものだったはずである。解り合えないのが当たり前の人間同士がなんとか意思を伝え合おうと努力してきた。その結果、「言葉」をはじめとするコミュニケーションが発達してきたんだろう。それが、共同幻想にどっぷり浸かっているうちに、いつの間にかコミュニケーションの「不可能性」を忘れ、芋蔓式に「解らないものを解り合おうとする努力」までが放棄されつつある。いわば、退化である。

いまこそ、マスに頼らない本当のコミュニケーションを模索すべきときなのかもしれない。

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