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承認という幻想をシェアするために
承認欲求の不幸はその強さと承認可能性が反比例するところにあるのかもしれない。
・非承認型社会「日本」へようこそ - Thirのはてな日記
・承認なんて自分でしろよ。 - 飽きたら消すよ。
・「承認」はどのようにして得られるのか? - Thirのはてな日記
・承認ほにゃらら - 飽きたら消すよ。
ひとつ目のリンク先でいう承認の壁は相当に厚い。件の仮説が当たっているなら、人はあるがままの自分を誰かに受け入れてもらえない限り生きてはいけないということになる。これはいくらなんでもハードルが高すぎる。人は絶望的なディスコミュニケーションを前提に、何とか互いを認識し合うための方法を発達させてきた。少なくともぼくはそう認識している。だから、あらゆるコミュニケーションが不完全なのは当たり前だ。自分自身のことですら、仮想の自分とコミュニケートすることでしか認識できない。自分が認識できる自分というのは、その意味で他者に等しい。
そんな不完全なコミュニケーションの中で他者に承認されるとはどういうことか。身も蓋もないいい方をすれば「自分は承認されていると信じられる」ことでしかない。これは一種の自己投影だ。自己認識を他者に投影した結果にすぎない。だから、他者に承認されない苦しみを抱えるとき、その人がふたつ目のリンク先にあるような「自分による承認」ができないのは自然なことだ。これは4つ目のリンク先にあるように、親子関係に収斂されるような話ではないと思う。承認という幻想をどれだけ与えられたかよりも、それが単なる自己投影だと気付くことの方が重要ではないか。
人が生きていくのに必要なのは、だから、承認なんていう朧な糧なんかではない。もっと具体的な他者の反応であり自分に対する態度であるはずだ。恋人ができることは承認されることなんかではない。社会的名声を得ることは承認されることなんかではない。せいぜい、自分の中の一部が誰かの気に入ったというだけのことである。そして、たったそれだけのことで人は幸せに生きられる。承認欲求が満たされているように見える人たちは、この程度のことで自己信頼を高めることができ、承認されているという幻想に浸れる人たちなのである。それは決して間違ったことではない。
自分は誰にも承認されないと思ったとき、自分は誰かに承認を与え得ているか考えてみるといい。とても難しいことに思えないだろうか。それは他の誰かだって同じだ。けれども、承認されているかもしれないという期待や、ちょっとした幻想の種くらいなら与えることはできるんじゃないか。自分が欲しいと思うものは他の誰かも欲しているものだ。そして、与えるのが難しいものは、受け取るのも難しい。与えられることにばかり気がいくと、そんな当たり前を忘れる。自分が与えられる程度のものしか、普通は受け取ることもできない。そして、そういうことの中に幸福はある。
過剰な承認欲求は、承認不可能性を高めるばかりで決して幸福に結びつきはしない。
【関連して読んだサイト】
・404 Blog Not Found:難認簡接型社会「日本2.0」へようこそ
・承認欲求って昔から政治権力や宗教の源泉だよ - 雑種路線でいこう
posted in 08.06.30 Mon
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- 08.07.17承認=非承認というパラドクスを前に慌てふためく、末期的な「自称人間」たちの落ち度
- 08.07.19「人類総動物化計画」の接続可能性
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comment - コメント
リンク先をざざざっと読んで…
みんな、修学旅行の夜じゃないんだからさぁ…と言いたくなるようなウンザリ感が。
承認―まずは社会的なアイデンティフィケーションというだけの言葉に、個人的な「理想と現実のギャップ」とか「自分らしさ」みたいな思い入れを各々好きなだけ塗りつけて、できあがったでっかいお菓子をしゃぶり呆けているように見える。
そんなセンチメンタルな地点からいきなり社会を論じる。セカイ系ならぬシャカイ系か。
それこそ疎外感なり閉塞感の元じゃないのか。子供がいきなり都会にひとりはぐれて途方に暮れるように。
ええ、えらそうな勝手な落書きですみません。
が、lylycoさんが書いてるのも
いい大人がそんな観念中毒みたいな地点から始めてないで、生活の中で具体的な個別の問題にあたって行けば? ってことですかね? 違うかな。違ったらすみません。
posted in 08.07.01, by nb
> nbさん
あはは、まあ、おおよそ違わないです。けれども、リンク先のようなことを論じる人たちの気持ちが、ぼくは少しくらいは解かる気もするんですよ。その程度の自我膨張期はぼくにもありましたから。彼らはあれで外側から論じているつもりなんだと思うんです、たぶん。それに対して、もっと外があるんじゃないの、というのがぼくの見方といったところでしょうか。
実際、ああいう観念的な自我と社会の捉え方では、不幸を減らす方策までが胡乱になってしまう。既に幸福の内にある人は自分の幸福を確認できていいのかもしれないけれど、おそらく、不幸の内にある人にとっても不幸を確認する以上の意味を持たないんですよね。そんな言説はいくら捏ねても未来に繋がらない。
だからといって、いい大人なんだからちゃんと足元に注意して歩きなさい、みたいなことをいってもたぶんうまく通じない。それでこういうエントリーになったんですが、残念ながらまったくスマートじゃありませんね。
posted in 08.07.01, by lylyco