自分だけ気持良くなろうと思うな

実のところ、彼らはどちらも「会話を楽しもうとしてる」のである。

会話を楽しもうとしてるのに
はてなブックマーク - 会話を楽しもうとしてるのに

だから、「会話を楽しもうとしてるのに」という苦情に対する、もっとも誠実な回答は「おれもだよ」である。ふたりのすれ違いは「どんな会話を楽しいと思うか」の違いからきている。どちらが悪いという話ではない。思いやりがないというなら、どちらも同程度にない。たとえば、はてなブックマークにも散見される「どちらかの態度がおかしい」とするような意見は、少しばかり公平な視点を欠いている。「感情的な会話が楽しい」人もいれば「ロジカルな会話が楽しい」人もいる。「知識を交換し合う会話が楽しい」という人もいるだろう。どの会話の楽しみ方が正しいということはない。

リンク先の諍いは、お互いが自分の楽しみにしか興味がなかったことに起因している。この手の齟齬は夫婦の会話に限らず普遍的にある。当然、男女の差異に収斂できる話ではない。ある会話のどんな展開を楽しく思うかは、それこそ臨機応変であり千差万別だからだ。そして、互いの楽しみのポイントが偶然もの凄く近いということはあるかもしれないけれど、完璧に一緒ということはあり得ない。ただ、共感や同意を得たい気持ちがまったくない人は少ないだろう。それを意識することは間違いじゃない。ただし、求める共感のポイントや同意のポイントすら人によって違うからややこしい。

たとえば、「けど、統計的には凶悪な犯罪は減ってるんだけどね」に対して「へぇ、そうなんだ。意外だねー」というような感想を求める人もいれば、それじゃ物足りなくて「その場合の凶悪の定義って何なの?」というように興味を持たれて喜ぶ人もいるだろう。反対に「えー、統計とかってあんま信用できないよねー。調査方法によってまったく違う結果になったりするしさぁ」みたいなカウンターを打たれて機嫌を損ねる人もいるかもしれない。つまり、どちらかがどちらかの土俵にあがったところで会話が楽しくなる保証はない。リンク先に書かれている対処法も効かないときは効かない。

結局のところ、会話には正解も王道もない。以前うまくいった例が次も使えるとは限らないし、違う相手に有効とも限らない。できることといえば、せいぜい相手をよく見ることくらいだ。会話が楽しいときは「お互いが楽しい」はずである。自分の楽しみだけを追求して会話を楽しむことは難しい。会話はひとりでするものではないからだ。当たり前といえば当たり前の話だ。まあ、心の中で相手を馬鹿にして優越感に浸って楽しむ人がいないとはいわない。趣味の悪い楽しみだ。それで心が満たされるとも、人生が豊かになるとも思えない。あまりにも虚しいコミュニケーションだと思う。

件の夫婦の会話は、その手の虚しいコミュニケーションではないと思う。お互い楽しみたい気持ちがあるのにすれ違っているだけだ。旦那はこれが気持ちいいんだと信じて激しく腰を振る。妻はもっと優しくゆっくりして欲しいのにと不満を抱く。そういうことはある。激しくすることが間違いなわけではない。それが好いときもある。問題はお互いがそれを求めているのか、だ。自分だけ気持良くなろうとしていても、偶然うまくいくことはあるだろう。けれども、そんなのは稀だ。また、どちらかが一方的に奉仕するのでもない。何よりお互いがお互いをちゃんと見てちゃんと楽しむことだ。

そうして互いの楽しみを縒り合せる。豊かなコミュニケーションとはそういうものだと思う。

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